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「誰かが教えてくれることを信じるのではなく、自分で考えて行動する」ためには、矛盾だらけの「現実」をありのままに把握することから始めるリアリスト思考が欠かせません。「考える・書く力」の研修を手がける開米瑞浩が、現実の社会問題を相手にリアリスト思考を実践してゆくブログです。

原子力論考(57)コミュニティは統制を必要とする(コミュニティ・シリーズ1)

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 かなり込み入った話になるのであらかじめ書いておきます。今から何回かのシリーズ記事を書きます。原子力論考はもともと長文が多いですが、このシリーズは特に長くなる上に、抽象的な話も多くなります。原子力問題なのに初めのうちは原子力のゲの字も出ないくせに宗教と共産主義唯物論の話になったりします。なんだこりゃ? と思われることでしょう。そういうわかりにくいシリーズなので、時間のあるときに読んでください。

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 人は「外界」から何か刺激があると、それに対して「反応」します。この「刺激-反応」は生物として生理現象のように人類共通に起こるものもあれば、社会的文化的な要因で集団単位で共通のもの、個人差が大きいものもあります。



 一方、人間の集団に対しては、時によって集団の全員に関わる共通の課題が降りかかることがあります。これを「危機」と呼びましょう。危機には対応しなければなりません。その対応を個人単位でやっていても間に合わない場合、「コミュニティ」が必要になります。



 人間の集団はコミュニティを作らなければ成り立ちません。
 そして1つの集団がコミュニティとして成立するためには、個人個人の「刺激」に対する反応がある程度一定になるように構成員を統制する必要があります。つまり、何らかの「教育」が必要になります。



 このような、コミュニティに属する個人の反応を統制するための「教育」は、さまざまな形で社会の中に埋め込まれます。文字通り「教育」と呼ばれることもあれば「慣習」「文化」や「宗教」がそれに該当することもあり、「法律」や「報道」という形で存在する場合もあります。

 ただ、「慣習」や「文化」等々、呼び名が多いと扱いづらいので、これ以後は「行動様式」と呼ぶことにします。

【行動様式】
人間の、刺激に対する反応のパターンのことを呼ぶ
コミュニティ単位で一定の行動様式が存在することが多い。

 「コミュニティ」の規模が小さい場合、たとえば一目で見渡せる範囲に住んでいる集落単位のようなコミュニティを統制するなら「行動様式」の構成要素は、「慣習」+「長老のマネジメント」だけで間に合います。この規模では「法律」も「報道」も、現代的な「宗教」も存在しません。

 その規模が大きくなると「法律」が必要になってきますが、「法律」が必要なのは、単にコミュニティが大規模化したときというよりは、異なる行動様式を持つコミュニティを統合しようとしたときです。



 A集団とB集団の勢力に大きな差がある場合は小さい方が大きい方に吸収されるだけで、「法律」は必要とされませんが、一方的な吸収にならないような条件がある場合は、「法律」が作られます。「一方的な吸収にならないような条件」とは、A、Bの双方がある程度の規模を持っている、地理的に分離されている、といったもので、こういう場合はAとBがどちらもその行動様式を維持したまま存続を続けます。

 ちなみに、「ローマは、世界を二度征服した。一度は軍隊によって、二度は法律によって」と言われることがあります(キリスト教を加えて三度と呼ぶ場合も)。
 そのぐらい、古代ローマは「法律」によって統制された社会だったわけですが、なぜ「法律」が必要だったかと言えば、ローマはその成立の本体が弱小部族であったために、周辺の他部族を征服駆逐することができず、安全保障の必要上、「行動様式の異なる他部族と合理的に折り合いを付けて共存していく」ことが不可欠だったからであろう、と私は理解しております。(あ、別に史学者でもなんでもない一介の素人の見解ですが)

 この場合の「法律」とは文字で書かれた成文法のことです。不文法は1つのコミュニティの中でしか通用しませんので、異なるコミュニティを統合しようとするとどうしても成文法が不可欠になります。そう考えると「ローマは、世界を二度征服した。一度は軍隊によって、二度は法律によって」というのも話は逆で、法律によって周辺他部族を統合することに成功し、軍事力の強化が可能になったため、世界を軍隊で征服することができた」という解釈が妥当でしょう。

 ところで、異なるコミュニティを統合する方法としては、法律を明文化して運用する方法の他に、「従うべき権威」の共通化を図る方法もあります。



 原始的なコミュニティにおいてはこの「権威」というのは部族の長老や王や神官に該当する者が務めます。この「権威」が、複数の集団に対して横断的に成立するなら、統合が可能になるわけです。

 そこで起きるのが「宗教の拡散」。
 要は、A集団とB集団がともに共通の神を奉じてしまえば、いざというときはその裁定に従う、という形でA、Bそれぞれの集団の長はそれぞれのコミュニティ内を収拾することができます。

 こういうことが必要なのは、おおむね「戦争」が起きたとき。
 A集団とB集団が抗争を始めたとき、当初はABともに威勢良くドンパチを始めて血気盛んに戦いますが、長期化するとその負担が増して厭戦気分が生まれてきます。

 しかし、これはもうダメだ、停戦しよう・・・・と、双方のリーダーがそう望んだとしても、なかなかおいそれとはいきません。

憎き敵の撃滅を果たさずに戦争をやめるのでは、
この戦争で死んでいった英霊に申し訳ない

 といった主戦論を唱える過激派がたいていどんな社会にも存在し、そういう人々はたいてい声が大きく、かつ、実力行使主義を持っていることが多く、早期講和派を「裏切り者」と断じ「天誅を下す」と称してテロ行為に走る場合があります。いくらリーダーであってもそんな社会の空気の中ではなかなか「停戦」という決断はできません。

 え? 70年ぐらい前のどこかの国のような光景ですか、そうですか。ちなみにこういう光景は100年ぐらい前も、160年ぐらい前にもありました。別に日本に限らず世界中どこでも、いつの時代でもあるものです。人間の集団というのはそんなものです。

 そんなときに都合がいいのが「権威」の存在です。中世-近世のヨーロッパでは停戦調停のために各国の君主の間を飛び回るのがキリスト教会の重要な仕事でした。

 「何だと? 停戦だあ? てやんでえ、俺はなあ・・・・
  いや、まあ、○○がそういうならしかたがない、ここらへんで手打ちにしとくか」

 という感じで「戦いをやめる口実」を作るのに、「権威」の存在は非常にありがたいわけです。まるでヤクザの抗争のような話ですが、本質は同じです。ヤクザの抗争でもたいてい最後は第3の組織が入って「顔を立てる」形で手打ちになります。こういう手打ちの仲介をするためには、「実力(武力、経済力)」と「権威」の両方があることが望ましいですが、実力と権威が分離する社会体制が組まれるケースもあります。もちろん、日本がその例です。

 というわけで、組織間抗争を調停するために「権威」の存在は非常に都合がいいため、宗教の拡散が起こることがあります。

 ちなみにキリスト教は古代ローマ帝国の一角で起こり、後にローマの国教となって世界に広まりましたが、古代ローマがキリスト教を国教化したのは、その軍事力がハッキリ衰退した時でした。「実力」が充実しているうちはそれ自体で「抗争の調停」ができますが、それがなくなってくると代わりに「権威」で思想統制を図る必要が出てくる、というそんな構図が見えます。西欧諸国が世界を植民地化する過程で、征服地にキリスト教会を建てて現地のキリスト教化を進めた理由もこのへんにあるのでしょう。あ、もちろん歴史学も社会学も宗教学もなにもやってない一介の素人の見解ですので念のため。

 何にしても、社会をひとつのコミュニティとして維持していくためには、行動様式を統制する何らかの方策が必要になります。それは「慣習」と呼ばれたり、「文化」や「宗教」と呼ばれることもあり、「法律」が該当することもあります。
 それらの「行動様式を統制する仕掛け」は本来は社会の中に安定的に埋め込まれていて、社会の中で暮らす個人がそれを意識することは本来ありません。

 ところが、「社会の中に安定的に埋め込まれている」というこの状態が崩れると、困ったことが起きます。19世紀ごろからそんな事態がヨーロッパ全域で起こり始め、ある重大な社会変動を引き起こします。

 (続く)


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