原子力論考(56)「抗議運動」をする前にジャンプの勝利の方程式を学んではいかが?
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週刊少年ジャンプといえば誰もがご存じの大手漫画週刊誌。そして、そのジャンプの編集方針として、「努力・友情・勝利」の3つのキーワードがあるのはよく知られています。
ざっくばらんに単純化してしまうとこういう感じです。
「自分」と「仲間」で、「目標」へ向けて「作戦」を遂行することで、その努力と友情と勝利に対して観客からの注目・関心を集め、そして賞賛を得る、というモデルです。
目標の達成が「勝利」、作戦が「努力」、そこで自分と仲間の間に成立するのが「友情」です。
で、実はこの「目標」というのは結構「個人的な願い」だったりするんですよね。
一見、社会正義のように見える目標もあったりしますが、その実は結局「俺がそうしたいからしたいんだ」ということだったりします。「ONE PIECE」や「ヒカルの碁」は完全にそうですし、City Hunter や Dragon Ball 、あるいは北斗の拳などは一見社会正義っぽいところもありますが、やはり個人の願いをベースにしています (と、少なくとも私には思えます)。
そしてこのジャンプ的「勝利の方程式」の中では、「敵」は必ずしも永遠に敵ではなく、お互いがその力を認め合うライバルであり、時には「とも」というルビを振って読まれ、ついにはマジで仲間になってしまうこともあるという、そういう存在です。
もちろん、完全な悪役になっている敵キャラもいないわけではありませんが、「敵と書いて"とも"と呼ぶ」タイプの敵が少なからず出てくることは同意されるでしょう。
こういう「努力・友情・勝利」の法則は少年ジャンプの44年の歴史を支えてきた大法則であり、ということは根源的に人の心に響くものがある、と言えるわけです。
さて、一方で現在、過激化・先鋭化の兆候を見せている反原発・脱原発運動は、このモデルが若干劣化した、こんな形で動いているように見えます。
ある「価値観」を前提として、その価値観から与えられるミッションに従い、ターゲットに対して「戦う」わけです。そして、ジャンプ・モデルとの違いは、
「目標」が「非道な敵(の撃滅)」になり、
「努力」が「ジハード」になり、
「友情」が「ソシキ」になり、
とそれぞれ変質しているのではないか? ということです。
「敵」はもはや「ルビを振って"とも"と呼ぶライバル」ではなく、「悪逆非道な、撃滅すべき敵」となり、それに対して戦う行動は一種のジハードとなり、そのジハードを遂行するために「ソシキを維持する」必要が出るため、友情ではなくソシキの締め付け、思想統制が行われるようになる、という次第。
ちなみに「ソシキの締め付け、思想統制」とはたとえばこういう現象です。
「段階的脱原発派は、隠れ推進派か低脳」という主張。#日本翼
↑同じ「脱原発」を主張しているはずなのに、ちょっとでも穏健なことを言うと「おまえは隠れ推進派だな!」とか「低脳!」と攻撃しはじめるというものです。
こういう現象は戦後左翼運動の中ではよくあるケースで、たとえばかつて新左翼運動の指導者の一人であった三上治が田原総一郎との対談 (書籍 「連合赤軍とオウム わが内なるアルカイダ 内) で同様の例を語っています。
こういうパターンの社会運動にはかつての新左翼の残党が入り込んでくるのも当然の流れで、こういう展開も以前から予想されていました。
中核派が北九州瓦礫受け入れ妨害行為への関与を宣言 - Togetter
これじゃあ、うまくいきませんね。かつて新左翼運動が行き詰まって連合赤軍化し自滅していったように、地に足のついていない闇雲な脱原発運動をしても自滅するだけです。
ジャンプの勝利の方程式モデルに習えばうまくいくわけではありませんが(あれはあくまでもフィクションの世界ですし)、それでも新左翼的ジハード・モデルよりはよっぽどマシです。子供や妊婦を連れて「がれき搬入焼却阻止!」の抗議行動をする前に、ジャンプの方程式でも学んでみるほうが良いのではないか? と、そう思いますよ。ほんと。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ
ざっくばらんに単純化してしまうとこういう感じです。
「自分」と「仲間」で、「目標」へ向けて「作戦」を遂行することで、その努力と友情と勝利に対して観客からの注目・関心を集め、そして賞賛を得る、というモデルです。
目標の達成が「勝利」、作戦が「努力」、そこで自分と仲間の間に成立するのが「友情」です。
で、実はこの「目標」というのは結構「個人的な願い」だったりするんですよね。
一見、社会正義のように見える目標もあったりしますが、その実は結局「俺がそうしたいからしたいんだ」ということだったりします。「ONE PIECE」や「ヒカルの碁」は完全にそうですし、City Hunter や Dragon Ball 、あるいは北斗の拳などは一見社会正義っぽいところもありますが、やはり個人の願いをベースにしています (と、少なくとも私には思えます)。
そしてこのジャンプ的「勝利の方程式」の中では、「敵」は必ずしも永遠に敵ではなく、お互いがその力を認め合うライバルであり、時には「とも」というルビを振って読まれ、ついにはマジで仲間になってしまうこともあるという、そういう存在です。
もちろん、完全な悪役になっている敵キャラもいないわけではありませんが、「敵と書いて"とも"と呼ぶ」タイプの敵が少なからず出てくることは同意されるでしょう。
こういう「努力・友情・勝利」の法則は少年ジャンプの44年の歴史を支えてきた大法則であり、ということは根源的に人の心に響くものがある、と言えるわけです。
さて、一方で現在、過激化・先鋭化の兆候を見せている反原発・脱原発運動は、このモデルが若干劣化した、こんな形で動いているように見えます。
ある「価値観」を前提として、その価値観から与えられるミッションに従い、ターゲットに対して「戦う」わけです。そして、ジャンプ・モデルとの違いは、
「目標」が「非道な敵(の撃滅)」になり、
「努力」が「ジハード」になり、
「友情」が「ソシキ」になり、
とそれぞれ変質しているのではないか? ということです。
「敵」はもはや「ルビを振って"とも"と呼ぶライバル」ではなく、「悪逆非道な、撃滅すべき敵」となり、それに対して戦う行動は一種のジハードとなり、そのジハードを遂行するために「ソシキを維持する」必要が出るため、友情ではなくソシキの締め付け、思想統制が行われるようになる、という次第。
ちなみに「ソシキの締め付け、思想統制」とはたとえばこういう現象です。
「段階的脱原発派は、隠れ推進派か低脳」という主張。#日本翼
↑同じ「脱原発」を主張しているはずなのに、ちょっとでも穏健なことを言うと「おまえは隠れ推進派だな!」とか「低脳!」と攻撃しはじめるというものです。
こういう現象は戦後左翼運動の中ではよくあるケースで、たとえばかつて新左翼運動の指導者の一人であった三上治が田原総一郎との対談 (書籍 「連合赤軍とオウム わが内なるアルカイダ 内) で同様の例を語っています。
こういうパターンの社会運動にはかつての新左翼の残党が入り込んでくるのも当然の流れで、こういう展開も以前から予想されていました。
中核派が北九州瓦礫受け入れ妨害行為への関与を宣言 - Togetter
これじゃあ、うまくいきませんね。かつて新左翼運動が行き詰まって連合赤軍化し自滅していったように、地に足のついていない闇雲な脱原発運動をしても自滅するだけです。
ジャンプの勝利の方程式モデルに習えばうまくいくわけではありませんが(あれはあくまでもフィクションの世界ですし)、それでも新左翼的ジハード・モデルよりはよっぽどマシです。子供や妊婦を連れて「がれき搬入焼却阻止!」の抗議行動をする前に、ジャンプの方程式でも学んでみるほうが良いのではないか? と、そう思いますよ。ほんと。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
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