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「誰かが教えてくれることを信じるのではなく、自分で考えて行動する」ためには、矛盾だらけの「現実」をありのままに把握することから始めるリアリスト思考が欠かせません。「考える・書く力」の研修を手がける開米瑞浩が、現実の社会問題を相手にリアリスト思考を実践してゆくブログです。

脱ガンジガラメ = 相互信頼のある組織風土づくり ・・・かもしれない

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 こんにちは、社会人の文書化能力向上トレーニングをライフワークとしております、開米瑞浩です。

 遅まきながら私も「脱ガンジガラメな働き方」について書いてみることにしました。
 といっても、実は私は普通に会社員をしていた期間が6年ぐらいと比較的短く、それ以後16年は基本的にフリーで仕事をしているせいか、「ガンジガラメな働き方」についての記憶はあまりありません。

 現在は外で仕事があるときは外出するものの、自宅作業の割合も多く、「会社という場所や時間や制度にあるいはシステムに縛られて」いない働き方をしています。それは自由と言えば自由ですし、安定がないと言えばないのも確かで、人に勧められるような種類のものではないですね。まあ人それぞれ向き不向きがありますし、自分に合った働き方をすればいいのではないでしょうか。

 私にとって「ガンジガラメ」といえば、働き方というよりは「学び方」です。
 いちばんその「ガンジガラメ」感を感じたのは、中学時代でした。中学時代の学校との闘争については過去に何度か書きましたが、とにかくありとあらゆることに束縛をしてくる学校という存在にうんざりしていました。
 今年1月19日の記事(「教育」の美名の元で権力をふるう者達 - 生徒に考えさせない学校システム(4))で書きましたが、学校側と戦ううちに私は、学校という組織が

「生徒は自分の意志をもって考え、選択し、行動するべきではない

と考えていることを知りました。
 要するにそこは何についても「決まっているやり方に従いなさい」という場所でした。
 「どうしてこうなんですか、理由を教えてください」と聞けば

「それが決まりだから」
「昔からみんなこうしてるんだから」

 まったく理由にもなにもなっていない返答を平然としてくる組織でした。
 あの時期が私にとって一番の「ガンジガラメ」だったので、卒業したときは本当に清々しましたね。


■ガンジガラメとは「判断をさせてもらえないこと」

 というわけで、私にとってガンジガラメとは「判断をさせてもらえないこと」であったようです。
 ・・・・なんて、そんなことを書いているうちにあるエピソードを思い出しました。
 ノーベル賞を受賞した物理学者のファインマン氏がその著書「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の中で書いていたことで、要約するとこんな話です。

ファインマンが原爆開発に携わっていたときのこと。
放射性物質を扱うため、研究所内の安全確保策を検討していたファインマン達科学者グループは、どうしても作業員達に放射性物質の性質を教えなければならない、という結論に達した。
単に安全な作業規則を作ってそれを守ることを徹底させるだけでは無理だ。
放射性物質の性質を教えて、どんな危険があるのかを理解させなければ、作業規則はいずれ破られる。運用がおろそかになって事故を起こすだろう。
だから、作業員達に教育をしなければならない、というのが科学者グループの結論だった。
しかし、放射性物質の性質は当時軍事機密になっていて、軍の許可を取らなければ作業員に教えることはできない。
そこでファインマン達は軍の責任者との交渉に向かい、機密指定されていた情報を作業員に教えることが必要だ、という主張を展開した。
それを聞いた軍幹部は「5分考えさせてくれ」と言い、5分考えて、そして決断した。
「わかった。そうしよう。作業員への教育を許可する」

 このシーンを見ていたファインマンは、「もし自分がその軍幹部の立場だったら、こんな決断が出来ただろうか・・・」と自信がなかったそうです。
 「教育をしよう」と提案に行った自分は内容を熟知しているからそれが正しいことを確信できる。けれど今話を聞いたこの軍幹部は、科学者でもないのに科学的知見に基づく提言を聞き、理解してそのリスクを踏まえて重大な決断を下そうとしている。それもたった5分でだ・・・と、「他人の言葉を信じて」「組織を動かす決断をしなければならない」その決断の重さに気が遠くなりそうだった、というわけですね。

 これがもし、ガンジガラメを好む幹部だったらきっとこうだったことでしょう。

「放射性物質の知識は軍事機密である。よって、公開してはならない。以上」

 いわゆる「前例踏襲」という判断をするとこういう答えが出てきます。こういう人物は「幹部」ではなく「患部」と呼ぶべきかもしれませんが(笑)

■「判断」ができるためには何が必要か

 さて、脱ガンジガラメとは「自分で判断ができる働き方」だとしたら、それができるためには何が必要なのでしょうか?

 ファインマンのこのエピソードから、私なりに感じたポイントを挙げてみます。

1.規則がつくられた理由にさかのぼって考える習慣を持っていること

 もちろん、「規則」には理由があるはずですが、往々にしてその理由は忘れ去られ、「前例」として一人歩きしがちなものです。理由まできちんと考えていれば、諸事情が変わってその理由が当てはまらなくなったときには「規則そのものを変える」という判断が出来ます。・・・・が、これはそんなに簡単なことでもないようです。

2.判断に責任を負う意識を持っていること

 まあ、世の中には「責任を取る気もないのに独自の判断を連発する人物」も中にはいますが、「責任を取りたくないから独自の判断を避けて前例踏襲を連発する人物」もまたいます。どちらも論外な話で、「自分で判断をする」以上は、「その結果には責任を取る」という意識が必要なのでしょう。うん、あたりまえ過ぎるポイントですね。

3.必要な知識と経験と思考力を持っていること

 ファインマン達の提言内容は、組織マネジメントに関するものでした。こういう問題に判断を下すためには、組織を動かした経験のある人間でなければ難しいでしょう。おおぜいの人間のかかわる組織というものが、いかに思い通りに動かないものか、いくら規則で統制しようとしてもどうしても現場では無知や怠惰や浅知恵から来る運用破りが止まらないものか、ということを肌で知っていないと、適切な判断は難しかったと思われます。知識と経験と思考力の3点セットが必要だったはずです。

4.相互信頼

 最後に挙げたいのが「相互信頼」です。ファインマンがそう書いているわけではありませんが、さまざまな意味の「信頼」がそこにはあったのだろう、と私は勝手に推測しています。
 原爆開発プロジェクトに関わっていた科学者、技術者、軍人、作業者達の相互に「信頼」があったからこそ、「必要な教育を行う」という判断が出来たのではないか、ということです。
 人間は、信頼されると、その信頼に応えなければならないという意識が働きます。自分が重要な決定をする任にあるなら、その決定によって影響を受ける「仲間のため」に、最善の決定をしなければいけない、という意識を感じるわけです。その意識の元では「前例踏襲」というのは任務放棄も同然であって、たとえ結果として不幸な方向に転んだとしても、それも含めてリスクを踏まえて合理的な判断を下さなければならない、という責任感を感じることでしょう。少なくとも私だったら感じます。

 1~3まではどちらかというと個人の意識や能力の問題ですが、4番は組織風土の問題ですね。そんなわけで、脱「ガンジガラメ」には、物理的な場所や時間の問題もさることながら、組織風土づくりの観点が欠かせないのではないだろうか、と、そう考える次第です。

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