原子力論考(10) 「安全神話」と言われるものの実情について(後編)
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原子力論考の10本目、「安全神話」と言われるものの実情、の後編です。
今回は反原発運動が持っていた欠陥の2つ目
原子力発電の推進側の人々に対して人格を否定するような攻撃を行ったこと
について書きます。
■人格否定による相互不信こそが最も大きな損害をもたらす
現在はインターネットがあるので、街頭でチラシをもらわなくても反原発運動家の主張を直に見ることができます。するとすぐに気がつくのは、
卑劣・責任逃れ・許し難い
といった、怒りにまかせて相手方の人格を否定するような文言です。たとえば下記のようなフレーズがごく普通にあります。
反原発運動の中核にいる人々は私が知る限り30年前からこの調子です。正直、もう変わりようがないでしょう。
ですが、この東日本大震災にともなう原発事故を経て「脱原発すべきではないのか?」と思い始めたという人の多くはこういう反原発運動文化には毒されていないはずです。ですから、せめてこういう人格攻撃だけはやめましょう。
原発反対、という主張をするのはかまいません。でも、電力会社や原子力産業に対して「卑劣」であるとか「原子力ムラ」というような侮蔑的表現を使うのだけはやめてください。人格攻撃は相互不信を生み、問題解決を遠ざけるだけです。
本来、電力会社は敵ではありません。電力という、安定的にコントロールすることが難しいインフラを、世界的に見てもありえないぐらい高い品質で提供し続けてきたプロフェッショナルです。今後、日本どころか地球の大きな問題であるエネルギー問題、環境問題を解決していくためには、電力の提供者(電力会社)と利用者(社会)が協力して最善の方策を探っていかなければいけないんです。そんなときに、この両者の間で感情的な対立を起こして何になるのでしょうか?
電力会社は官僚的な体質だとか地域独占にあぐらをかいて鼻持ちならない殿様商売をしているとか、そういった批判も出てきてはいますが、少なくとも政策決定の場にはそういった感情は持ち込まないようにしたいものです。
どんな組織だって聖人君子で運営されているわけではありません。中にはその通りの人物もいたことでしょう。しかし職員の大半は、電力という社会の最も根幹をなすインフラを安定供給すべく使命感をもって真面目に仕事をしていた人たちです。少なくとも私はそう信じています。こういう非常時こそ電力のプロフェッショナルとしての彼らのチカラが必要なのであり、今は「叩く」べき時ではなく、「応援」するべき時なのです。そのために私はこの「原子力論考」シリーズを書いています。
■なぜ「反原発運動」は人格攻撃に走ってきたのか?
人格攻撃は真の問題解決を遠ざけます。
原子力産業の従事者だって人間です。誰だって、敵意むき出しで向かってくる相手に対しては防衛線を張りたくなります。どんな些細な攻撃材料も与えたくなくなるのは無理もありません。それが「安全神話」を生み、結果として安全性の向上を阻害しました。
それにしても、なぜ、「反原発運動」はそんな何の益もない人格攻撃に走ってきたのでしょうか?
それを理解するには、反原発運動のバックグラウンドが社会党・共産党系のグループであったということの意味を知る必要があります。次回、その話を書きます。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ
今回は反原発運動が持っていた欠陥の2つ目
原子力発電の推進側の人々に対して人格を否定するような攻撃を行ったこと
について書きます。
■人格否定による相互不信こそが最も大きな損害をもたらす
現在はインターネットがあるので、街頭でチラシをもらわなくても反原発運動家の主張を直に見ることができます。するとすぐに気がつくのは、
卑劣・責任逃れ・許し難い
といった、怒りにまかせて相手方の人格を否定するような文言です。たとえば下記のようなフレーズがごく普通にあります。
政府と東京電力はこの日、私たちデモ隊の前から姿を消しました。
なんという卑劣な組織でしょうか! 絶対に許せません!
反原発運動の中核にいる人々は私が知る限り30年前からこの調子です。正直、もう変わりようがないでしょう。
ですが、この東日本大震災にともなう原発事故を経て「脱原発すべきではないのか?」と思い始めたという人の多くはこういう反原発運動文化には毒されていないはずです。ですから、せめてこういう人格攻撃だけはやめましょう。
原発反対、という主張をするのはかまいません。でも、電力会社や原子力産業に対して「卑劣」であるとか「原子力ムラ」というような侮蔑的表現を使うのだけはやめてください。人格攻撃は相互不信を生み、問題解決を遠ざけるだけです。
本来、電力会社は敵ではありません。電力という、安定的にコントロールすることが難しいインフラを、世界的に見てもありえないぐらい高い品質で提供し続けてきたプロフェッショナルです。今後、日本どころか地球の大きな問題であるエネルギー問題、環境問題を解決していくためには、電力の提供者(電力会社)と利用者(社会)が協力して最善の方策を探っていかなければいけないんです。そんなときに、この両者の間で感情的な対立を起こして何になるのでしょうか?
電力会社は官僚的な体質だとか地域独占にあぐらをかいて鼻持ちならない殿様商売をしているとか、そういった批判も出てきてはいますが、少なくとも政策決定の場にはそういった感情は持ち込まないようにしたいものです。
どんな組織だって聖人君子で運営されているわけではありません。中にはその通りの人物もいたことでしょう。しかし職員の大半は、電力という社会の最も根幹をなすインフラを安定供給すべく使命感をもって真面目に仕事をしていた人たちです。少なくとも私はそう信じています。こういう非常時こそ電力のプロフェッショナルとしての彼らのチカラが必要なのであり、今は「叩く」べき時ではなく、「応援」するべき時なのです。そのために私はこの「原子力論考」シリーズを書いています。
■なぜ「反原発運動」は人格攻撃に走ってきたのか?
人格攻撃は真の問題解決を遠ざけます。
原子力産業の従事者だって人間です。誰だって、敵意むき出しで向かってくる相手に対しては防衛線を張りたくなります。どんな些細な攻撃材料も与えたくなくなるのは無理もありません。それが「安全神話」を生み、結果として安全性の向上を阻害しました。
それにしても、なぜ、「反原発運動」はそんな何の益もない人格攻撃に走ってきたのでしょうか?
それを理解するには、反原発運動のバックグラウンドが社会党・共産党系のグループであったということの意味を知る必要があります。次回、その話を書きます。
■開米の原子力論考一覧ページを用意しました。
→原子力論考 一覧ページ
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