「ぼっち仕事』の時代がやって来た
私は、1982年に日本IBMに入社したが、当時の日本経済は、1973年から始まる「安定成長期」と言われる時代で、多少の浮き沈みはあったが、継続的な成長が続いていた。そして、1985年頃から始まるバブル期で頂点を迎える。1991年、バブルは一気に崩壊し、「失われた20年」、あるいは「失われた30年」とも言われる低迷期を迎える。
私が現役で営業をしていた1989年に遡ると、企業の時価総額ランキングの上位50社の中に日本企業が32社、そのトップ5を日本が独占していた。
30年後のいま、上位50社に入る日本の企業は、トヨタ自動車だけで、それも35位に留まっている(2021年9月現在)。まさに、「失われた30年」だ。
1990年代前半、IBMもまた業績の低迷に苦しんでいた。その背景にあるのは、小型コンピューター(パーソナルコンピューター・ミニコンピューター・エンジニアリングワークステーションなど)の台頭にある。
IBMは、独自の大型メインフレーム・コンピューター(S/370アーキテクチャー)やネットワークアーキテクチャー(SNA)で、顧客を囲い込み、ビジネス・コンピューター市場で一人勝ちの状況にあった。そんなIBMの得意とする市場の外から、小型コンピューターが、攻めてきた。
UNIXを搭載し、インターネットの登場とともに注目されるようになったTCP/IPは、オープンと分散を掲げ、「メインフレームの時代」から、小型システムの時代、すなわち「ダウンサイジングの時代」への流れを作りつつあった。高額と独自技術が導入の妨げとなっていたコンピューターを、全社を代表する情報システム部門ではなく、個々の事業部門が、自分たちの予算で購入し、使える時代がやって来たのだ。市場のなかったところにメインフレームほど高性能ではないが、安価で十分に使えるコンピューターが、新たな顧客を生みだしたというわけだ。
当時、圧倒的な技術力を持っていたIBMは、小型コンピューターに関わる技術を他社に先駆けて数多く開発していたが、既存事業における圧倒的な優位を守るべく、IBMの独自技術を優先し、オープンな時代の流れに乗ることに積極的ではなかった。
「他社の小型コンピューターを導入しても、いま使用されているIBMシステムとうまくつながる保証はありません。ネットワークのアーキテクチャもコード体系も違います。何重にも多重化したハードウェア構成によって、信頼性もまるで違います。そんなシステムを業務で使うなんて、ほんとうに大丈夫ですか?」
当時、営業であった私は、お客様にこのような説明をして他社の小型コンピューター導入を翻意させようとしていた。
結果は、いまさら言うまでもない。コンピューター利用の裾野はIBMが得意とする基幹業務に留まらず、様々な業務分野に広がっていった。メインフレームが直ちになくなることはなかったが、それ以上の勢いで「基幹業務以外」に小型コンピューターが普及し、やがては、メインフレームの得意とする領域を侵食するようになったのは、ご存知の通りだ。クリステンセンの言う「破壊的イノベーション」、そのものと言えるだろう。
私は、そんな日本のバブル崩壊と、IBMの凋落をリアルタイムで見てきた。IBMでは営業として一部上場の電気・電子メーカーを担当して、確実に予算を達成していたし、優秀な営業に送られるアワードもいくつも手にしていた。しかし、バブルが崩壊し、ダウンサイジングの時代になって、その勢いもなくなってしまった。それは、何も私だけではなく、日本IBMあるいはIBM全体で勢いがなくなっていた時期でもあった。
1991年、IBMは28億ドルに上る創業初の赤字を計上し、1993年までの3年間で累積赤字総額150億ドルに陥った。そんなIBMの経営再建を託され、1993年4月、IBM初となる外部招請の会長兼最高経営責任者(CEO)に就任したのが、ルイス・ガースナーである。
IBMは、日本IBMを含めリストラを行った。当時、年俸の2倍の退職金が支払われるとの好条件もあり、また、私自身が、そもそもサラリーマンは嫌だといつも思っていたので、1995年、36歳のときにこの制度を使って独立することにした。
IBMで培った営業経験、そして、そこで成果をあげてきたという自信に、独立することへの不安はなかった。しかし、世間はそれほど甘いものではなかったことを、身をもって知ることとなる。
IBMでは営業として、人並みかそれ以上の成績をあげてはいたが、それは自分の実力であると自信を持っていた。何億円、あるいは、何十億円の年間予算を確実に達成してきた自分であり、独立して一人がやっていくことぐらい困らないだろうと高をくくっていた。しかし、それが単なる自分勝手な思いこみであったわけだ。
IBMと言うだけで、誰にでも会うことができた。しかし、IBMの名刺も看板もない。人に会うことすら、容易なことではなかった。仕事の話し以前に、人のつながりを最初から作らなければならない。もちろん収入など得られるはずはなく、貯金通帳の残高を見るのが、怖いと感じる日が続いていた。
それでも、なんとか生き延びることができた。そのために心がけたことが3つある。
- ことわらずに何でもやる
- 紹介された誰にでも会う
- 期待される以上の成果を出す
とにかく必死だった。そして、IBM時代の年収を超えるのに3年ほどかかっただろうか。そして、こちらからお願いをしなくても、いろいろと仕事を頂けるようになった。いろいろと調子に乗って、失敗もしたが、それでも何とか生き延びることができていた。
そんな流れを一瞬に断ち切ったのが、2008年のリーマンショックだ。コンサルや人材育成が、当時の主な仕事ではあったが、売上に直結しない経費は、まずは真っ先に切られた。仕事は一切なくなり、また貯金通帳を心配する毎日になった。それこそ、財布に千円札がない日もあるくらいだった。
当時、研修やコンサルで資料や教材の蓄積があった。しかし、それがお金にならない。ならばと言うことで、とにかくヒマでもあったので、その資料をオープンに公開し、それを教材にして勉強会を開くことにした。もちろん、無料での勉強会なのでお金にはならない。ヤケクソである。しかし、興味を持って頂く人たちが瞬く間に集まり、70名を超える勉強会になった。
賑やかに徹底して議論した。そして、さらに資料も作った。そしてそれを公開し、関心ある人たちと共有した。そして人が繫がり、どんどんとその繫がりが広がっていった。お金ではなく、好奇心と学びの意欲でつながった人たちとの繫がりは、いまも私の財産となっている。そして、その後の仕事のきっかけもまた、そういう人たちがもたらしてくれた。
そうはいっても、食べていかなければならない。2008年、いまでは、毎期100名を超える受講者となったITソリューション塾を、数名の受講者でスタートした。勉強会での経験もあって、教材は、全てオープンにオリジナルのパワーポイントのまま、ロイヤリティ・フリーで共有することにしたのだが、そのことが評判になって、受講者が増えていった。
当時、ある講師仲間からこんなことを言われたことがある。
「斎藤さん、研修教材をロイヤリティフリーで上げてしまうなんてどうかしている。誰かが、それを使えば、あなたの仕事は減ってしまいますよ!」
紙やPDFの資料では、もらっても使いようがない。パワーポイントのファイルにすれば、いくらでも使い回しできる。そちらの方が、受講者にしてみれば嬉しいはずだ。嬉しいと感じてくれれば、リピートも増えるだろう。それを使って、講義をする人が出てくれば、その人もハッピーではないか。自分は、とにかくいい教材を作るために彼らよりも早くアップデートし続ければいい。そう思っていた。
幸いにも、彼のご忠告は、全くの杞憂だった。むしろ、そのことがウリとなっていった。そして、他の人には、簡単にはまねのできない自分の強みになった。
そんな「ぼっち仕事」を、もう26年のあいだ、続けている。
こんな私事を長々と書いたのは、コロナ禍をきっかけに、私が経験してきた「ぼっち仕事」をしようという人が増えていくのではないかと思って、その参考になればとの思いからだ。
会社を辞めて独立しようと言う人ばかりではない。リモートワークのカタチは、まさに「ぼっち仕事」そのものだろう。また、雇用形態がジョブ型へ変われば、例え会社に所属していても、会社との約束に対する成果で評価されるようになるだろう。何時間働いたからではなく、事業の成果にどれだけ貢献できたが、問われることになる。外資系の企業であれば、そんなやり方があたり前で、「ジョブ型」などという区分は、そもそも存在しない。グローバル化が進むなか、日本企業もこの常識に抗うことはできないだろう。
出世して課長、部長、役員になることではなく、自分のジョブ・ディスクリプション(職務記述書)をアップグレードしてゆくことで、報酬が上がる仕組みになる。自分が会社に何ができるかで報酬が決まる。会社に所属しても、「ぼっち仕事」が基本になる。働くことと会社との関係が大きく変わってしまうだろう。
待っていれば、会社が仕事を与えてくれる。それを愚直にこなせば出世できて、収入も増えるという時代では、なくなろうとしている。
いまは、DXブームもあって、この業界の転職事情は、私がIBMを辞めた時代とは、まるで違う。しかし、それは「転職者しやすくなった」という話しではなく、「働く」ということの価値観が変わったと、捉えるべきだろう。
つまり、「就職=就社」という価値観が薄れ、個々人の社会的価値で、人々が取引される、言わば、「人材の市場経済化」が、進みつつあることを意味する。
若い頃の給料は安いけど、長く勤めれば年功序列で昇進し、収入も増え、退職金でまとまった収入を得られるという物語は、もう望めない。将来が予測できない不確実な時代にあっては、「会社」というよりどころそのものが幻想となった。そうなれば、自分の会社における価値にこだわることは、大きなリスクであろう。自分の社会的な価値に関心を持ち、それを高める努力が、100年人生の時代の生き方なのかも知れない。まさに「ぼっち仕事」の時代である。
何も会社を否定するものではない。ただ、会社に頼る生き方ではなく、会社に頼りにされる生き方が、会社人生を豊かにすることになるのだろうと思う。会社というしがらみから自分を解放し、自分の可能性を引き出すことが、会社にも貢献し、評価されるし、そういう生き方をしていれば、どこ行っても通用するので、自分の人生の選択肢を増やしてくれる。
「ぼっち仕事」とは、そんな生き方のための覚悟であろう。