体罰という"異常":封印された日本の教育文化
(イラスト:マメハル)
勘違いしている人も少なくないかもしれませんが、実のところ日本には、古来より体罰という文化は根づいていませんでした。
むしろ、「恥をかきたくない」「空気を乱したくない」といった内面の抑制によって教育や指導は行われて来たのです。
例えば、江戸時代の寺子屋では、まれに「しっぺい棒」で手の甲や肩、背中などを軽く叩くことがありましたが、これは痛みで従わせるのではなく、注意を促すための儀礼的な行為であり、現代の体罰とは性格が異なっていました。
また、寺子屋には寺子屋独特の「捧満(ほうまん)」という水を持たせて立たせる罰がありましたが、これも「謝り役」の仕組みがあり、立たされた子供の友人や先輩が先生に許してやって欲しいと頼むことで解決する穏やかなものでした。
これも、苦痛を与えるというよりも友人に謝らせるという「恥」で教育する仕組みだったといえます。
これらの「静かな規律」こそが、日本本来の文化的な教育の形だったといえるでしょう。
明治以降に導入された"体罰という制度"
日本の教育や訓練に体罰が本格的に導入されたのは明治時代以降です。
西洋式の軍隊制度が急速に取り入れられ、特に徴兵制の導入によって、平民階級の若者たちが大量に軍隊に動員されるようになったことが契機でした。
彼らを迅速に規律化・命令に従わせる手段として、暴力を伴う教練が"効率的"とされ、正当化されていきました。
これがやがて学校教育や師弟関係、職場や家庭にまで波及し、「体罰によって人を育てる」という価値観が定着していきます。
とはいうものの、当初は士族や上流階級の子弟に対して教師が手を上げることはほとんどなく、暴力はむしろ忌避されていました。
つまり、体罰は「日本古来の文化」ではなく、外来的かつ制度的に持ち込まれたものだったのです。
戦後、「体罰」が異常に一般化した
戦後、日本はかつてない社会的混乱に見舞われました。
戦争に負け、価値観が崩壊する中で、「厳しく鍛え直さなければ日本は再生できない」という空気が蔓延していきます。
ここで、旧軍式の精神主義・根性論が、軍隊で鍛えられた人々が社会復帰したこともあり、教育・スポーツ・企業文化に流れ込んでいきます。
かつて兵士を統率していた体罰文化が、戦後は教師・監督・上司の手によって、生徒や部下に向けられるようになったのです。
「叩かれて強くなった」
「鉄拳制裁は愛情だった」
「叩かれて目が覚めた。あれで社会に通用する人間になれた」
こうした言葉が昭和〜平成初期にかけては美談とされ、体罰が肯定的に語られる"異常な時代"が長く続きました。
これは戦争が直接生んだものではなく、戦後という特殊な社会状況――敗戦のトラウマ、復興への焦り、教育制度の不整備など――が複雑に絡み合った結果、体罰が"正しい"と錯覚されたのです。
現代、ようやく「原点回帰」が始まっている
21世紀に入り、ようやく社会は「体罰は不適切である」という共通認識に向かいつつあります。
教育現場では体罰禁止が法的に明確化され、
スポーツ界でも指導者のあり方が見直され、
SNSを通じた告発や報道で"体罰神話"が崩壊し始めました。
これは単なる社会の進歩ではありません。
ある意味、むしろ日本が本来持っていた「暴力によらない秩序」「恥の文化」「空気による調和」への回帰とも言えます。
体罰を懐かしむ人々へ
今でも、「昔は体罰が当たり前だった」「今の子は甘すぎる」と語る元教育者や元スポーツ選手は少なくありません。
もちろん、彼らの積み重ねてきた経験や人生観を否定するつもりはありません。
その時代なりの必死さと信念があったことも確かです。
しかし、それが"日本らしい教育"だったのかと問えば、答えは否です。
日本にはもともと体罰を使わないで人を育てる文化があった。
それが一時的に壊れ、異常な時代が続いただけです。
これは保守・リベラルといったイデオロギーの問題ではありません。
むしろ、文化的な深層をどう理解するか、日本人がどこに立ち返るべきかという、もっと根源的な話なのです。
おわりに
いまだに、体罰が行われているという話を聞くと残念でなりません。
静かに、空気を読み、恥を知り、暴力ではなく敬意によって人を導く。
そうした「力ではない力」が、日本社会の底に流れていました。
戦後の混乱を経て、ようやくその本質に立ち返る時が来ています。
それは革新ではなく、回復であり、修復であり、日本文化の静かな再確認なのかもしれません。