平凡な人々にも夢が持てる企業社会実現は急務
日本の少なからぬ企業において、社内の雰囲気が悪化し、鬱病が蔓延していることが報じられてから一体何年が経過したことでしょう。
残念ながら、そうした状況が克服されたという話は聞きません。
この夏、「ビジネスメディア誠」の連載「嶋田淑之の"この人に逢いたい"」で取材させていただいた人事コンサルタントの前田卓三さんは、日本の企業(ならびに官公庁)における組織風土の荒廃は、それらの組織が「人基準」での評価を行っていることに起因するとし、早急な「仕事基準」へのシフトを唱えていらっしゃいます。
前田さん取材記事(前編)は、こちら
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http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1006/12/news001.html
立場は異なれど、私もまた、この問題は、日本として、ただちに抜本的な対応をすべき重大な問題であると思っています。
90年代に、日本の企業社会が、「不変」と「革新」の"識別"に失敗し、舵取りを誤った結果として、2000年代に入ってからの、この深刻な停滞を招いているのだと、私は思います。
今回は、この問題について私が書いた記事をご紹介しましょう。
下記は、フジサンケイビジネスアイで私が担当した全44回の連載の中の第6回として、2007年12月11日に掲載されたもので、多くのビジネスパーソンの方々に共感をもって迎えていただいた思い出深い記事です。
平凡でも夢が持てる企業
師走の声を聞くと活気づくのが就職戦線だ。
大学3年生たちは、自己分析、業界研究を経て、この時期、企業へのプレ・エントリーなどを開始する。
しかし、最近は、日本全体に「人生の夢を描きにくい」雰囲気が充満していることが実感される。
思えば、90年代初頭までの日本は、「平凡な一般庶民」にも夢を与える社会だった。
家が貧乏でも、コツコツと学校の勉強に取り組んでいればよかった。
学力をつけて、そこそこ上位の大学に入れれば、就職活動の上でも、入社後の処遇においても、多少のアドバンテージを得ることができた。
その後の人生も、平凡な人なりに、そこそこ出世もし、穏やかで安定した人生を享受できた。
ところが、90年代の大不況以降、「終身雇用」「年功序列」の維持が困難になってくると、ほとんどの日本企業は、アメリカ直輸入の「成果主義」をこぞって導入した。
けれども、それがもたらした「結果」は、そんなに歓迎すべきものだろうか?
90年代後半、いわゆる上位大学出身者のアドバンテージは、ほぼ消滅し、代わって、いくら稼げる人間なのかが強く問われるようになった。
しかし、日本の学校教育システムが、そうした「商人(あきんど)教育」をしていない以上、こうした価値観の下で頭角を現し得るのは、そうしたDNAを継承している人、「商い」の環境の中で育った人など極めて少数の人々に限られ、勉学一筋で来た平凡な人々は、ほとんど手も足も出なくなる。
こうした人たちが地盤沈下した結果として、では、従来、中堅以下とされてきた大学の出身者たちに「輝かしい日々」が訪れたかというと、決してそんなことはない。
文部科学省の「ゆとり教育」の弊害で全般的に学力が低下しているのに加え、「少子化」の進展による「大学全入時代」を迎えるに至り、彼らに対する産業界の評価は厳しい。
そんな停滞感を一掃するかに見えたネット系ベンチャーへの若い人々の期待感も「ライブドア事件」などを契機に冷え込んでしまった。
あとに残ったのは、「寄らば大樹の陰」的価値観だ。
それも、これといった展望のない「でもしか的」選択。
そして、いったん入社すれば、「商人」としての「成果」を即求められ、結果が出ないと屈辱的な評価や「リストラ」にさらされる。
社内の空気は荒廃し、ギスギスした人間関係は、ストレスを高め、社内には鬱病が蔓延している。
新入社員が3年以内に3割以上退職するのも当然だ。
ところが、そうした「組織能力」の低下も、せいぜいが人事・労務部門マターとされ、全社レベルでの「経営革新」のテーマには、なかなかならない。
今、多くの日本企業には、内部崩壊の予兆が垣間見られる。
本来、大多数の人間は、これといった取り柄のない、ごく平凡な人たちである。
そうした人々が、希望と喜びをもって人生を送れるようにすることは、即「組織能力」の向上、そして、企業としての成長発展に結びつくことに思いを致すべきであろう。