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日本の未来について悲観的な情報ばかりが飛び交う昨今ですが、一筋の光が明滅するのを最近実感します。それは成功企業の中に、アメリカ型経営とは一線を画す日本古来の伝統経営哲学がしばしば見出されるようになったことです。数百年の風雪に耐えて今なお顧客や社会に支持される老舗企業に特有な哲学や経営姿勢が、図らずも若いベンチャー企業群に見出される――その経営の在り方を「主客一如型経営」と名づけ、今後の日本の産業界をリードし、再生に導く存在になり得るものと期待しています。本ブログではこの主客一如型経営に関し、その原動力となる「不変と革新」というキーワードから解明してゆきたいと思います。

「もったいない」と接待文化~残飯使い回し事件への視点(前編)

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前回書いた「もったいない」という概念で思い出されるものに、船場・吉兆の残飯使い回し事件があります。

 

あの事件が発覚した時、マスコミは、主として、お客の食べ残した料理を使い回すことで、経費節減を図ったという視点から報道していました。

 

しかし、私個人としては、(行ったこともないお店ではありますが・・・)本当にそれだけなのだろうか・・・・と、何となく割り切れない思いを感じていました。

 

というのも、高級割烹での接待する側、される側の両方の立場で、私自身、末席に連なった時に、料理を作り供する店側の思いと、高いお金を払ってそれをいただく客側の思いとの間に、常々、埋め難いギャップを感じていたからです。

 

 

<接待の現場にて>

ある有名割烹でのこと。

お店のスタッフが、本日のお勧めの食材・料理の説明をしてくださり、接待する側の代表者が、「じゃあ、それを是非!」という訳で、オーダーしました。

 

接待といっても、話す内容は、世間話に毛の生えたようなものが主体で、たわいもない話題で談笑するだけの時間です。

 

会話の合間に酒を飲み、お料理は、食べたり食べなかったり・・・・

 

お店の人が、「きょうは、素晴らしい食材が手に入りました」と言って、熱心に、そしてとても嬉しそうに、誇らしげに勧めてくれた逸品も、テーブルの上に放置されたままです。

 

食い意地の張った私などは、「食べないと、お店にもお料理にも食材にも申し訳がない・・・」と思って気が気ではなかったのですが(笑)、私のような末席の者が先に箸を伸ばす訳にもいきません。

 

やがて、さっき料理を注文した代表者がお店の人を呼んで、「ここにあるの、下げてください」。

 

お店の人の表情が一瞬曇り、「ああっ!」と、声にならない声を挙げたのを、私は見逃しませんでした。

 

 

 

<料理し、もてなす側の思い>

私は、自分で毎日調理するようになって一段と強く感じるようになったのですが、「食べる」という行為は、他の動植物の命をいただくことに他なりません。

 

私のような素人であっても、調理するにあたっては、「どうすれば、この食材(の命)を、最大限に生かすことができるだろうか?」ということに腐心するものです。

換言するならば、「どうすれば、この動物ないしは植物は成仏できるだろうか?」ということでもあります。

 

それを実現するために、丹精込めて、持てる力を出し切って、料理を作るわけです。

 

 

プロの料理人であるならば、私の何倍・何十倍も強く、こうした気持ちを抱くのではないでしょうか?

 

とりわけ、伝統と格式を誇る高級割烹の料理人なら、

素晴らしい食材を使わせていただき(=その命をいただき)、それを、自分の技と心で最高の料理に仕上げることによって、お客様に喜んでいただきたい・・・・そうすれば、食材たちだって、きっと喜んでくれるだろう・・・・

 

そんな気持ちになるのではないでしょうか?

 

料理人だけでなく、仲居さんも含め、全スタッフがそういう思いを共有しているからこそ、時代を超えて愛される名店になってゆくのではないかと、私は思います。

 

「自分たちは、自分たちを取り囲む森羅万象と不可分一体の存在なのであって、その中で"生かされている"」という主客一如の価値観の中に生きる人々ならではの思いです。

その思いは、言うなれば、「不変」の対象として堅持され続けるものと言ってよいでしょう。

 

 

 

<客側の思惑>

お店を愛し、供される料理の数々を心ゆくまで堪能してくれるお客さんは、昔も今も数多くいることでしょう。

 

 

しかし、その一方において、お店の売上構成比を眺めてみると、場所柄もあるでしょうか、接待客が主力というケースだって多々あることです。

 

もちろん、接待で店を訪れるお客にも、お店を愛し、料理を愛する人々は、たくさんいます。

 

とはいえ、そうじゃない人々もまた、数多く存在することもまた事実です。

 

高級店で接待して差し上げるという思い、高級店で接待して下さったという思い・・・・接待する側、される側が、お店の伝統とか格式に主たる価値を置いて、お店の人々の思いにも、そこで供される料理自体にも、関心を示さないケースは、よくあります。

 

バブル経済以降に顕著な傾向ですが、「高いお金を払ったんだから、出された料理をどう扱おうが、客の自由だ」といわんばかりの態度の人がとても多いように感じます。

社会的地位の上下とか、名門の出身か否か、などあまり関係ありません。

 

 

きっとこういう反論があるでしょう!

たとえば、

接待客が料理の多くを残そうが、それによって、その後の商談がうまく行くなら、食材として使われた動植物だって成仏するのではないか? 

料理人だって、丹精込めた甲斐があったというものだろう!

 

なるほど、一見、正論風ではあります。

 

しかし、言うまでもなく、料理人(やお店のスタッフ)のミッションは、「客の商談が成功するようサポートすること」ではありません。

 

そもそも、最初から、両者(店と客)の「目的」は、大きく乖離しているのです。

 

 

店側にとしては、売上のかなりの比率を占める、そういう人々を排除する訳にもいかず、自分たちの思いとはまったく反する振る舞いをする彼らを前に、いったい、どう対応をすれば良いのでしょうか?

 

そこで適切な対応ができたお店は、よりいっそう発展する方向に向かうでしょうし、誤った対応をしたお店は、没落せざるを得ないでしょう。

 

店の命運に関わる、その対応に関して、次回、述べようと思います。                       (次回に続く)

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