「水戸黄門の印籠」はいつまで必要なのか?
少し前のニュースですが、女優の由美かおるさんがテレビドラマ「水戸黄門」を卒業しました。
あの入浴シーンを毎回楽しみにしていた殿方たちのがっかりした顔を目に浮かぶようです(笑)。
ドラマ「水戸黄門」は、言うまでもなく、日本の代表的長寿番組のひとつです。
この番組がなぜ、そんなにも受けるのか?
"いざとなったらお上が助けてくれる"という、権力に対する、庶民の信頼の証だと解説する学者もいます。
たしかに、そういう面もあるのでしょう。
しかし、私は、むしろ、ここに、日本人、ならびに日本社会が抱えてきた"闇"の部分を見ます。
下記の記事は、フジサンケイビジネスアイで私が担当した全44回の連載の中の第4回として、2007年11月27日に掲載されたものです。
「階級社会」的特性と決別を
日本のテレビ番組で、長寿番組の代表として、しばしば挙げられるものに「水戸黄門」がある。
庶民をいたぶる役人や豪商たち。
彼らの悪行三昧を暴露しようとした黄門さまご一行に対して、彼らは「田舎ジジイの分際で何を言うか!」と襲いかかる。
すると、そこに、「ええい、控えおろ~! ここにおわすお方をどなたと心得る! 恐れ多くも先の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ!」。
印籠が登場し、悪党一味ひれ伏す。
それを見て視聴者(庶民)は拍手喝采を送る。
このパターンが何年、何十年と続いている。
これは、日本が、「他人の足元を見て、露骨に態度を変える」社会であることをあらわにしていると私は思う。
そして、現代日本においては、この傾向が、お上と下々の関係に留まることなく、社会のあらゆる人間関係に見出されるのである。
自分の利益のために大事に扱うべき人物か、適当にあしらっておけば済む人物かで、他人を品定めする。
要するに、短期的な利用価値の大小とか有無で対人態度を決定している。
軽く扱っていた相手が実は自分に有益だと判明すると、急に愛想笑いを浮かべて接近する。
わかりやすい話、都内の有名レストランに行けば、いつでも、そういうシーンに遭遇できる。
有名人や社会的地位が高い客とわかると、オーナーシェフが卑屈な表情で現れ、平身低頭かしづくが、無名の民が来ても、鼻もかけない。
めったに行けないあこがれのお店に行って「ひとときの幸せ」を満喫しようと思っていたわれわれ一般庶民は、疎外感と屈辱感に打ちのめされて悲しく家路につくことになる。
ところが、そんな日本にも素晴らしい「もてなしの心」がわずかだが存在している。
大阪・心斎橋の串揚げの名店「U」(筆者註「うえしま」さん)。
串揚げの最高峰であり、有名人御用達の高級店だ。
しかし、ここを経営するご夫妻は素晴らしい。
私のような「どこの馬の骨とも知れない一見客」に対しても、胸の熱くなるような人情味を示してくださった。
「この店には、水戸黄門の印籠は必要ないんだ」。
それ以来、私は抑えようのない「トキメキ」の心をもって大阪に向かい、店ではその味と人情に圧倒され、心の奥底にまで響く深い「感動」に浸った。
「トキメキ」と「感動」のサイクル的発展は、その人・店・企業への強力な「応援団」を形成することになるが、「U」は、まさにその典型であろう。
本来、日本には、こうした人情とか「もてなし」の心は存在していたのだ。いったい、どこへ行ってしまったのだろうか。
「Always 3丁目の夕日」のような昭和中期を懐かしみ美化するような映画がヒットしたり、ハワイや石垣島など島嶼系リゾートへの移住希望者が急増したりする昨今の風潮は、こうした日本社会の在り方にウンザリした人がいかに多いかを示している。
何をするにも、いちいち「水戸黄門の印籠」が必要だということは、言い換えれば、現代日本が「階級社会」としての特性を強化しつつあることを現していよう。「格差社会」という表現はめくらましだ。
これこそが、現代日本において、最も「革新」を要する部分ではないのか。
「水戸黄門の印籠よ、さようなら! 『トキメキ』と『感動』よ、こんにちは!」
そんな日本社会に変えたいものだ。
(この記事は以上)
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追記;
最初は出張にあわせて、のちには、それだけを目的に毎年通っていた上記の「うえしま」さん。
しかし、私が唯一の身寄りである老母の在宅介護を中心にした生活を送るようになってからは、まったく行っていません。
何年か前、mixiに、「うえしま」さんの素晴らしさを書いたら、面識はないのですが、うえしまさんご夫妻のお嬢様が、お礼のコメントをつけてくださったことがありました。
ご夫妻は、今もお元気で、あの比類なき串揚げを日々、揚げていらっしゃのでしょうか?
私は、これまでの人生において、食べ物を食べて、感動のあまり涙があふれたという経験は、たった1回しかありません。
それが「うえしま」さんです。
状況が許されるならば、またいつか食べに行きたいものです。