オルタナティブ・ブログ > 『ビジネス2.0』の視点 >

ICT、クラウドコンピューティングをビジネスそして日本の力に!

「SaaSの死」は本当か----AIがソフトウェア企業の価値評価を根本から変える

»

2026年初頭、ソフトウェア業界で「SaaSpocalypse(SaaSの黙示録)」という言葉が急速に広まりました。AIエージェントの台頭により従来型SaaSの存在意義が問い直され、2026年1月から2月にかけてソフトウェアセクターの時価総額は約2兆ドル消失したとされています。こうした中、米国の独立系投資銀行Houlihan Lokeyは2026年3月、AIがソフトウェア企業の企業価値に与える影響を体系的に評価するフレームワークを公表しました。

Artificial Intelligence and Software Valuations: A Framework for Assessing Enterprise Values

「SaaSは終わった」という悲観論と、「進化の過程にすぎない」という楽観論が交錯する中、投資家や経営者に求められているのは、感情的な反応ではなく構造的な分析に基づいた判断です。

今回は、「SaaSの死」をめぐる市場の動向、Houlihan Lokeyのフレームワークが示すAI代替リスクの構造や企業価値への波及メカニズム、そして、今後の展望について取り上げたいと思います。

スクリーンショット 2026-03-29 10.53.50.png

「SaaSの死」----何が起きているのか

2026年に入り、ソフトウェア業界では「SaaSは死んだ(SaaS is dead)」という議論が急速に広がっています。ForresterやIDCといった調査機関が相次いでこのテーマを取り上げ、Bain & Companyも「エージェント型AIはSaaSを破壊するか」と題したレポートを公表しました。背景にあるのは、AIエージェントの実用化が進んだことで、1人のユーザーがAIエージェントを活用すれば従来5人分の業務を遂行できるという現実が見え始めた点です。

この構造変化は、SaaSの収益基盤であるシート(ユーザー単位)課金モデルを直撃しています。Atlassianは2025年第3四半期の決算でエンタープライズのシート数が同社史上初めて減少し、株価は35%下落しました。Salesforceも収益は成長していたにもかかわらず、新規顧客獲得の鈍化が嫌気され28%の下落を記録しています。IDCは2028年までにソフトウェアベンダーの70%がシート型課金から消費量やアウトカムに基づく価格体系へ移行すると予測しており、SaaSのビジネスモデルそのものが再構築を迫られている状況です。

ただし、SaaS市場全体が消滅するわけではないことも重要となります。グローバルのSaaS支出は2025年の3,180億ドルから2029年には5,760億ドルへ拡大が見込まれており、「死」というよりも「選別と進化」が進んでいると捉える方が正確でしょう。

スクリーンショット 2026-03-29 10.55.00.png

ソフトウェア株に生じた二極化の構造

Houlihan Lokeyのレポートによると、ソフトウェア企業の株式市場では2023年以降、二つの明確な局面が生じています。2022年末の生成AI登場から2025年10月にかけて、水平型ソフトウェア企業の時価総額は中央値で46.2%上昇し、垂直型も41.4%の上昇を記録しました。AIを大規模に展開できるプラットフォームが一斉に評価された時期です。

しかし、2025年10月以降、市場の関心はAIの実装効果とマネタイズの実態へと移行しました。水平型プラットフォームは中央値で34.2%、垂直型は23.7%の時価総額下落を経験しています。この約10ポイントの差は無視できない数字です。たとえばServiceNowは37.5%、Workdayは44.2%下落した一方で、Veeva Systemsは36.8%、Autodeskは16.6%にとどまりました。

この差は、前述の「SaaSの死」の議論と直結しています。AIエージェントによる代替リスクが高いと市場が判断した企業ほど大幅に売られ、独自のデータや深いワークフロー統合で参入障壁を持つ企業は相対的に耐性を示しています。同じソフトウェア企業でありながら、AIとの関係性の違いが価格に如実に反映され始めた状況です。

スクリーンショット 2026-03-29 10.56.19.png

5段階フレームワーク----構造的分析の座標軸

こうした市場の動きを体系的に理解するため、Houlihan Lokeyはソフトウェア企業の企業価値に対するAIの影響を5つのステップで評価するフレームワークを提示しています。

第1ステップでは、AIの影響がマーケットセンチメントによるものか、収益の持続性やマージン構造、価格決定力、競争優位性といったファンダメンタルズに根差した構造的変化であるかを判別します。「SaaSpocalypse」のような市場の過熱した反応と、実際のビジネスモデルへの影響を冷静に切り分ける作業がここで行われます。

第2ステップではビジネスモデルを「水平型」と「垂直型」に分類し、第3ステップでサブセクターごとのAIの役割をマッピングします。第4ステップでは、データの独自性、ワークフローへの統合度、規制要件、スイッチングコストなど、参入障壁の厚みを評価します。そして第5ステップで、これらの分析を統合し、収益持続性、マージン構造、価格決定力、競争優位性という4つの企業価値ドライバーへの影響を時間軸に沿って判定する仕組みです。

このフレームワークが重要となるのは、「SaaSは終わった」という一括りの議論を構造的に分解し、企業ごとの差異に基づいた精緻な評価を可能にしている点にあります。

スクリーンショット 2026-03-29 10.57.09.png

水平型SaaSが直面するアンバンドリングの圧力

水平型ソフトウェア企業とは、業界横断的に広く利用される汎用的なプラットフォームを提供する企業群です。Microsoft、Salesforce、ServiceNow、Adobeなどが代表例にあたります。Houlihan Lokeyは、これらの企業が個々の機能をモジュール化して提供しているがゆえに、AIネイティブなスタートアップによる「アンバンドリング(機能の分解・代替)」に対して脆弱であると指摘しています。

この脆弱性は、「SaaSの死」の議論で中心的な論点となっている「シート圧縮(seat compression)」と密接に関連しています。AIエージェントが10人分の営業担当者の業務を代行できるようになれば、Salesforceのライセンスは10席から1席に減少し、収益は90%減少するという試算も出ています。SMB向けSaaSやコラボレーションツールの領域では、AIが「オートパイロット」として従来の業務を直接代替する方向に進んでおり、労働力の置き換えと価格圧縮が同時に生じています。

一方で、同じ水平型でもインフラストラクチャやDevToolsの領域では、AIは「エンジン」として既存のスタック性能を向上させる補完的な役割を担っています。つまり、「SaaSの死」は水平型全体に一様に訪れるのではなく、サブセクターごとに影響の濃淡が異なり、精緻な分析が必要となります。

垂直型ソフトウェアに備わる構造的な耐性

垂直型ソフトウェア企業は、特定の業界に特化した深いワークフロー統合と業務運用への組み込みを特徴としています。Veeva Systems(製薬)、Procore Technologies(建設)、Guidewire Software(保険)などが該当します。

Houlihan Lokeyのフレームワークによると、垂直型のAI代替リスクが相対的に低い理由は複数あります。第一に、FDA規制やHIPAA準拠といった業界固有の規制要件への対応が参入障壁として機能しています。第二に、長年蓄積された独自データが競争優位を形成しています。第三に、顧客のオペレーション全体に深く組み込まれているため、スイッチングコストが高く、AIによる全面的な代替よりも、既存システムへの補完的な取り込みが自然な進化経路となっています。

この構造は「SaaSの死」をめぐる議論に対して、重要な留保を提示しています。サイバーセキュリティやフィンテック、ヘルスケアITの領域では、AIは「コパイロット」としてマージンの拡大やワークフローの効率化に貢献する形で導入されており、AIが既存企業の価値を強化する方向に作用しています。グローバルSaaS支出が2029年に5,760億ドルへ拡大する予測の背景には、こうした垂直型プラットフォームの堅調な成長が含まれていると考えられます。

スクリーンショット 2026-03-29 10.57.43.png

企業価値ドライバーと時間軸----投資判断に必要な解像度

フレームワークの最終ステップでは、AIの影響を4つの企業価値ドライバー----収益持続性、マージン構造、価格決定力、競争優位性----に落とし込み、「短期(0〜2年)」「中期(2〜5年)」「長期(5年以上)」の三段階で評価しています。

AIとの関係が「高度に補完的」と判定された企業では、短期から長期にわたって4つのドライバーすべてにポジティブな影響が期待されます。対照的に、「代替リスクが高い」と判定された企業では、短期的には影響が中立的であっても、中期以降に価格決定力の低下や競争優位の毀損が進行するリスクが示されています。AIネイティブの新興企業が低コストで既存機能を提供可能になった場合、5年以上の時間軸では収益持続性にまでネガティブな影響が及ぶと想定されます。

ここでの実務的な示唆は、DCF法による企業価値評価において成長率、マージン、割引率、マルチプルの各前提がAIの影響によって再検討を迫られるという点です。「SaaSpocalypse」的な市場のパニックは過度な反応を含む可能性がありますが、シート課金モデルの構造的な揺らぎは現実として進行しており、従来の前提をそのまま適用することへの警鐘として、Houlihan Lokeyのフレームワークは有効な座標軸を提供しています。

スクリーンショット 2026-03-29 11.01.53.png

今後の展望

2026年以降、「SaaSの死」をめぐる議論は、より具体的な企業間格差の問題へと収斂していくと想定されます。水平型プラットフォームの中でも、AIをコア機能として再構築し、エージェント型インターフェースへの移行を進められる企業と、既存機能がAIネイティブ企業に侵食される企業との間で、企業価値の格差が一段と拡大することが考えられます。

課金モデルの転換も加速するでしょう。IDCが予測するように、2028年までにソフトウェアベンダーの大半がシート型課金からアウトカム型やコンサンプション型へ移行する中で、この転換に成功した企業は新たな成長軌道に乗り、対応が遅れた企業は市場から退出を迫られる構図が期待されます。M&A市場では、AIとの補完性が高い垂直型企業がプレミアム評価を受ける一方、代替リスクを抱える水平型企業の再編が進む展開が想定されます。

企業の経営判断としては、自社のビジネスモデルがAIに対して補完的なのか代替的なのかを冷静に見極め、データ資産の強化、ワークフロー統合の深化、あるいは課金モデルの再設計を並行して進めることが求められています。

スライド解説



Comment(0)