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開発ツールビジネスの再生に格闘。マーケティングの視点で解説

エンバカデロの今に至る開発ツール部門分離の真実

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今年2013年は、エンバカデロ日本法人を設立して5周年にあたる。エンバカデロは、1993年に設立されたデータベースツールベンダーであったが、2008年に、ボーランドの開発ツール部門と合併し、これまでボーランドが進めてきた開発ツールのビジネスを引き継ぎ、新しいソフトウェア開発技術を展開して現在に至る。

実際、DelphiC++BuilderといったWindows向けに提供されていた開発ツールのマルチプラットフォームサポート進め、Mac OS Xとのクロス開発を実現したほか、いよいよ今年には、iOS / Androidにもネイティブ対応する。

モバイルデバイスがここまで普及してくるとは、5年前には予想だにできなかったが、そのときからの継続的な投資が、今の状況に対応できる体制をつくったともいえる。

はたして、その5年前までに何があったのか。あらためてその状況を、何回かに分けて振り返ってみたい。

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今から7年前の2006年2月8日、当時の米ボーランドは、開発ツール部門の分離を発表した。

ITmediaでの当時の報道はこちら。

Borlandが開発ツールを売却、Segue Software買収
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0602/09/news010.html

ALM(アプリケーションライフサイクル管理)へと大きく傾倒するボーランドが、ビジネスモデルの異なる開発ツール部門を切り離したということだが、実際にエンバカデロとの合併が決まったのは2008年。それまでの2年間は、ボーランド内で社内分社というかたちをとることになった。

一般的にこの種の買収、売却といったニュースは、社内であってもぎりぎりまで伏せておくことが多く、このときも、ほんとうにギリギリまで我々には知らされていなかった。当時のボーランドでは、部長会的なミーティングが毎週開かれていた。このときも緊急招集され、部長、本部長連中が集まった。

当時の日本法人社長の河原さんから、開発ツール部門の分離について説明があると、一同に動揺が広がった。しかし、当時開発ツールを中心としたチャネルビジネスを担当し ていた本部長八重樫さんが不在だった。外出先からあわてて戻った八重樫さんが、席に着く間もなくニュースを知らされると、「えぇ!」と大きな声を上げた。

ほどなく、売却ではなく、売却を念頭に社内分社すること。従って、開発ツールビジネスは継続していくことなどが分かった。しかし、普通は売却を決めてから発表するものではないか、売却を前提にしていながら、ビジネスの継続とはいったいどういうことだ。当時のCEOトッド・ニールセンは、いったい何がしたいのか、正直真意を測りかねた。

当面の問題として、社内分社した開発ツール部門は、日本ではだれが引き継いでいくのか?それから、1ヶ月後の3月3日に実施が決まっていて、集客も始めている「Borland Developer Conference 2006」はどうするのか?この2点をすぐに決める必要に迫られた。

その当時、自分は何をしていたかというと、サポート営業の部長をやっていて、部下1名と2人だけで、ボーランドのサポートリニューアルについて、組織化を行っていた。サポート、いわゆる年間保守というのは、安定した収益をもたらす。当時の社長の河原さんも、この点に着目し、予測可能なサポート収益体制を作るよう命じられていた。

ただ、リニューアルに関しては、有限数のパイプラインに対して、網羅的に根気よくコンタクトして問題をつぶしていけばよく、効率的に総当たりできる体制を2ヵ月で作ってしまって、売り上げを増やす限界点まで早々に達してしまった。あとは、サービスレベルを上げ、顧客満足度をいかに上げるかということになって、サポートの質を上げる か、付加価値を付けるかといった選択肢が残るのみとなっていた。

サポートの質の向上は、常に言われており、永遠の課題でもあるが、当時は組織も大きく、なかなか一筋縄でいくものではなかった。すぐにできる改善点として、サポート加入者への付加価値、「Global Support Tech Report」の定期配布を始めていた。

これは、新製品情報や製品活用のTIPSなどをまとめた新聞スタイルのペーパーで、マーケティングが実施していたセミナーやイベントを独自に取材して構成したり、社内のエヴァンジェリストたちにインタビューしたりと、ひとりで取材、執筆、編集、レイアウトまでをこなして、隔月発行していた。

Tech_report01

もうひとつは、Borland Developer Network(当時)。その時点では英語のみの単一言語ページだったのだが、サポート情報を掲載したいという名目で、米国の担当者と可能性を議論していた。

会社全体の方向性としては、ALM、特にプロセスや要求開発のほうにシフトしていたので、コードを中心としたプログラミングの現場は、マーケティングでもあまり関知しない傾向にあった。それでも、年に1回ぐらいは開発者向けのイベントをやろうということで、開催が決まっていたのが、「Borland Developer Conference 2006」だったのだ。

開発ツールの売上が即成績に結び付く八重樫さんは、すぐに分離される開発ツール部門を担うように決まった。横でサポート営業兼サポートユーザー向け新聞社をやっていた自分には、八重樫さんより、「手伝ってね」と内々に声がかかった。

オフィシャルではないものの、「開発ツール部門を売却」というニュースが流れれば、当然サポートの更新率にも響く。そうならないため、という大義名分から、本格的に「Borland Developer Conference 2006」にかかわるようになった。

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