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ジュリアードのバルトーク・チクルス

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昨日、一昨日と、ジュリアード弦楽四重奏団によるバルトーク弦楽四重奏曲全曲演奏会を聴きに行った。バルトークの弦楽四重奏曲は、全部で6曲あり、まだ作品番号のついている若い第1番を除き、中期を中心とした円熟期の作品が主流で、音楽的凝縮度も高い。こんな濃密な演奏会に、連日足を運ぶ人がおり、320席を満席にするのだから恐ろしい。

1日目は奇数番、2日目は偶数番というプログラムである。こうして並べてみると、奇数はどちらかというと直線的、偶数は(4番に鋭角的な要素がちりばめられているにしても)叙情的な要素が優勢だ。バルトークの弦楽四重奏曲では、弦楽器でありながら、打楽器的な音楽性(楽器を叩くということではなく)が要求される。バルトークファンは、ホールを切り裂くような破壊的なビートに、身を乗り出して聴き入るものだ。

さて、ジュリアードである。この弦楽四重奏団は、「円熟」という域に達しており、決してアクロバティックではない。でも、楽譜の裏事情を知る立場としては、何気なく合わせられるアンサンブルは、ただ感嘆するばかりだ。でも、壊れない安心感は物足りないのかもしれない。ジェットコースターのつもりが、快適な新幹線じゃないか、と。

しかし、バルトークをバリバリ音ばかりだと捉えるのはよろしくない。むしろ聴かせどころは、ときおり叙情性を覗かせる民族的な旋律。日本風にいえば、火曜サスペンスの緊張の合間に、突然さぶちゃんがこぶしをきかせるようなもんだ。バルトークの独創性は、それと分からず民族的要素を忍び込ませるところ。こうした節回しについては、ジュリアードはうまい。一瞬にして冬のハンガリーのたそがれ時を作ることができる。

このような理由から、偶数曲の2日目のほうが全体的によい演奏であったことは間違いない。初日の1番は、叙情的な気がするかもしれないが、美しい旋律は、むしろ荒削りで直線的だ。だから、冒頭の美しい旋律を感情たっぷりに演奏すると過剰感がある。個人的趣味では、ヴィブラートは控えめにだ。

しかし、5番の終楽章では、気負いのない好演が聴けた。この楽章は、半音階的な上昇音と下降音、打楽器的な刻みのリズムで強烈な推進力を作り出す。しかし曲者は、コーダに突然出現する壊れたおもちゃのようなイ長調で始まるメロディ。急ブレーキで突然見世物小屋に連れ込まれたような雰囲気を、どぎつすぎず、気負わず、涼しい顔で決めるのは、並大抵のことではない。

ミーハーなことに、サイン会なんぞに参加して、サインをもらってしまった。

今回の演奏会、聴く側も体力が必要だったが、演奏する側は、相当の集中力と体力が要るはずだ。それをわずかな休憩で、3曲も演奏するとは(初日は、1番、3番と、それぞれ全部アタッカでつながっていて楽章の切れ目もない)、月並みながら「スゲー」というのが正直な第一声である。

ちなみに、両日ともNHKが収録していたので、全曲ではないだろうけど、そのうちテレビで見ることができると思う。

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