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ドビュッシーの音楽における各パートの役割

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今度の週末は3連休。金曜日は例によって音楽ネタを。

冬の定期演奏会では、前プロにドビュッシーの作品を2つ演奏します。前回のサマーコンサートのように、まとまりのない、いや色彩豊かな前プロとはうってかわって、開始から休憩まで全編ドビュッシーの世界です。

ドビュッシーといえば、「海」や「牧神の午後への前奏曲」などが有名ですが、印象派の呼び名が示すように、絵画との関連性がよく語られています。ドビュッシーの音楽には、近代の和声進行を無視して、音の響き、つまりは、響きによって生まれる色彩を表現するために、和音を選んでいるのだろうと思われる箇所が多くあります。反復的な動きや、うねりのような音鎖が、結果的に音楽をかたちづくります。

演奏する立場からすると、こうしたポイントはもっと明確になります。

これまでの近代音楽は、いわば旋律と伴奏、あるいは対旋律といった役割分担がありました。オーケストラの各パートも、自分は今、旋律だ、とか、伴奏だ、とか認識して、演奏します。

しかし、ドビュッシーのような、混ぜ合わせた音の響きによって色彩を表現するような音楽では、時として主役が不在だったり、効果音のようなパートがあったりします。また、旋律線も、ひとつの楽器で輪郭を出すのではなく、混合だったり、音色に変化を与える効果音的なパートが一緒だったりと、複雑な処理を伴っています。結果的に、オーケストラの各パートは、明確な輪郭線や明暗のはっきりした色を発音するのではなく、キャンバス上におかれた、それだけでは何を表現しているのか分からない、でも全体の中でぼんやりとその役割が見えてくる淡い色のように、絵筆の一部を担うのです。

いいかえれば、全体の中で自分の役割をしっかり演じることが、パート譜見ているだけでは難しい音楽である、ということ。だからというわけではありませんが、ドビュッシーは個人練習より、がぜん全体練習(「Tutti - トゥッティ」といいます)のほうが楽しく、盛り上がります。

もちろん、これをもって個人練習をサボる言い訳にすることはできません。

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