あえて今、「震災復興ツーリズム」のススメ(超アナログ編)
大人気のNHK朝ドラあまちゃんも震災後のドラマに突入し、終盤まで秒読みというこの時期。あえて今、東北の被災地を巡る旅に出てみた。それも、懐かしの青春18きっぷを使って、電車とバスだけのアナログ旅である。(ついでに言うとスマホやノートPCといった文明の利器の類を携行しないという意味でもびっくりするほど超アナログだ。)
目的は、こう見えて大真面目に「311で被災した東北の復興応援」である。(キリッ)
青春18きっぷとは、JR東日本の解説ページによれば「JR全線の普通列車(快速含む)の普通車自由席及びBRT、並びにJR西日本宮島フェリーがご利用になれ」る、となっている。価格は11,500 円。これ一枚あれば、基本的には日本中にあるJR各線の普通列車が1回あたり2,300円で一日乗り放題という、スーパーな旅券だ。名前に青春とあるのでたまに誤解されるが、別に年齢制限はなく、大人でも子供でも同額で使える。(一券片で五人まで利用可能、一人当たりの有効期限は一日。)
このきっぷは春休み・夏休み・冬休みの年三回、JR各駅窓口で発売される。今年の夏の分は既に販売終了しているが、次回以降ご利用を検討される方は、ネット上にも多くの情報が上がっているので、下調べしてみることをお薦めする。特に、発売時期と利用時期が微妙にズレているので利用に際しては注意が必要だろう。
改札で青春18きっぷにスタンプを押してもらい、旅の始まりである。まずは始発で北関東を出発し、JR大宮駅から宇都宮線に入って東北本線をひたすら北上する。アナログ旅という性質上、当然のことながら飛行機や新幹線などの「時間を金で買う」系の、速くて高額な移動手段は使わない。スマホでルート検索などもってのほかだ。(※特に意味はありません。)
紙のポケット時刻表とにらめっこしつつ、脳内で組み立てた完璧な「乗り替えプラン」を遅滞なくこなして行く...それが青春18きっぷの、鈍行列車アナログ旅の味わいというものである。これは貧乏とかではない、例えて言うなら現地のお年寄りや子供、自動車を運転出来ない弱者の目線を追体験するのだ...と乗り替え30分待ちの途中駅で駅そばのうどんをすすりながら自分に言い聞かせてみる。(うどん大変おいしゅうございました。)
●福島県立美術館のプライス・コレクション展へ
ひたすらに東北本線を北上し続けると、淡々と続く住宅地がしだいにまばらになり、やがて首都圏とはハッキリと別世界になってきた感の山深いエリアを通過する。昼も近くになって、まず最初に降り立ったのは福島駅。
じつは今回の旅の目的の一つでもあったのが、世界的に有名な江戸期の絵師、伊藤若冲の傑作を数多く集めた米国人ジョー・プライス氏所蔵のプライス・コレクション東北巡回展だ。
(福島県立美術館正面)
この展示が仙台、盛岡と巡って来て、その最後の開催地である福島を、すべりこみで訪れようというのだった。
熱狂的な若冲作品の蒐集家であるのみならず、江戸絵画全般に造詣が深く、日本人の奥様を持つプライス氏は東日本大震災の当時、テレビで映し出される津波被害や原発事故の光景に、大変胸を痛めたという。
そんな時、自然の猛威によって傷つけられた東北の被災地の人々に、自然の美しさ、優しさ、力強さを色彩豊かに描いた江戸絵画の傑作たちを、長年に渡って積み重ねて来た自身のコレクションを通じて鑑賞することにより、傷ついた心を是非癒して欲しい。そんな強い願いから企画されたのが、今回の巡回展示のそもそもの始まりである。同じ日本人として、この海の向こうからのプライス氏の厚意には心から感謝せざるを得ない。ありがとう、プライスさん。あと奥様と、関係者の全ての方々。
夏休み最後の時期だったこともあるが、会場に入ってまず驚くのは見学客に占める子供の多さである。何よりも子供の見学者を楽しませるためだろう、作品のキャプションに制作年代や絵師の出身流派等といったこむずかしい解説文はなく、代わりに例えば「絵の中におかしなどうぶつがいるよ!」といった、興味を引くようなユーモラスな表現になっている。これは面白い試みだと思った。通常の展覧会のように、小さな文字で、読めない漢字ばかりの何を書いてあるかわからない解説パネルがあるだけでは、それを見た子供は恐らく絵自体にも興味を引かれず、会場にいても楽しめなかっただろう。
展示内容は、プライス氏から貸し出された若冲作品以外にも国内外の名だたる美術館から協賛を受け、江戸絵画の傑作が貸出作品として一同に会している。しかし、会場内にそのくわしい作品解説はない。とはいえ仮に作品について詳しく知りたいと思う大人がいれば、会場の外へ出てから充実した展示カタログを買うことも出来るのだから、特に問題は無いだろう。
会場内の雰囲気も、これだけ子供が大勢いれば、普段なら「騒がしい」と顔をしかめる見学者も少なくなかった筈だが、今回は目立つひらがな多用の解説パネルのせいか、不思議と突然の高い声などもあまり気にならなかったようだ。老若男女、誰もが皆で一緒に作品を楽しめればいい、という主催側の意図が、展示方法からも伝わったようだった。若冲の、空想の動物が一面に描かれた有名な屏風(銭湯のタイル画に見えるという噂のあれ)の前では、大人も子供も魅入られたように顔をガラスに近付けて、熱心に鑑賞していた姿が印象的だった。
展示を観終って外へ出た時に気付いたのだが、県立美術館の建物に併設して図書館もあるらしい。山を背にしたガラス張りのとても居心地よさそうな空間で、ちょっと福島の人々が羨ましくなった。
福島が最終会場となる今回のプライス・コレクションの展示は9/23までなので残念ながらもう終了してしまったが、展覧会カタログ(公式図録)の販売情報がサイトに掲載されているので、どうしても欲しい人は連絡先に問い合わせてみてはどうだろう。
来た時と同じバスで福島駅に戻り、また東北本線に揺られて北上を続ける。仙台駅から上手く石巻までの快速直通運転があるのでそれに乗った。
この前に、待ち時間を利用して広大な仙台の駅構内で先に第一陣のおみやげ発送を済ませ、列車旅の楽しみの一つである駅弁を探す。今回の東北旅では、食べるものに関しては全て「復興を食べて応援」の精神でもって、むしろ遠慮せずに高いものを食べねばならない!と考えていたので選択に躊躇はない。せっかく仙台に来たのだからと名物の牛たん弁当に決定。「炭火焼牛たん弁当・塩竃の藻塩つき」は底についている紐を引きぬくと容器内に蒸気が発生し、いつでも温かい弁当を味わう事が出来る。肉も柔らかくて大変美味しかった(藻塩がポイント高い)。
そうして食べ終わる頃には列車は石巻に到着。既に夜になっていたが、バスと徒歩で宿まで移動してこの日の行程は終わり。出発以来、列車内で過ごした時間は9時間を超えていた。
●石巻市街を自転車で走り回る
石巻市に滞在して一日は、出来るだけ市街を見て回ることに決めていた。といっても当方、アナログ旅なので当たり前のように旅先で使える車などは無い。乗れるものは列車か、バスか、自転車くらいなもの。その自転車はチャリラーであればバラした愛機を担いで行くところだろうが、分解不能なママチャリしか持っていないので、とりあえず着いた先で駅前のレンタル・サイクルを探すことにしていた。旅をしていたのは八月も終わりから九月の始めにかけての時期だったが、その日は物凄く暑い日で、ジリジリくる日差しも、ほんの五分かそこらに外に立っているだけでクッキリ皮膚に境目が出来そうな強さだった。
駅でもらった案内によると、貸し自転車屋さんは駅前通りに震災後に作られた「復興商店街」の中にあるという。しかも無料(二時間限定だが)。どうせカゴつきのママチャリでそう遠くまでも走れないし、とこれに決める。
なかなか気合いの入ったデザインの自転車を借りて、さっそうと走り出した。
(石巻駅前の復興商店街で借りたレンタル自転車)
商店街の中を行くと両脇の店舗には所どころ櫛の歯が抜けたような空き地がある。それだけではない。信号待ちの交差点には陥没を埋めた跡とおぼしき凹凸があり、川沿いのガードレールは溶けた飴のようにぐんにゃりと変形している。日焼け防止のためにくそ暑い中フード付きの上着を羽織って、さらに海を目指して走り続けると、とうとう途中で道が消失してしまった。妙に落ち着かない気持ちにさせるだだっ広い更地に挟まれた崩れた道路の、そのくぼんだアスファルトに出来た水たまりの手前に、「この先立ち入り禁止」の表示が掛かっている。
ふと目を転じると、橋のたもとには、かつて自動車の形をしていた赤錆びたクズ鉄の山がごたごたと片づけられていて、かろうじて以前この一帯を覆い尽くしていたであろう、震災瓦礫の名残をひっそりと今も見せていた。
駅や市役所がある石巻の市街地はかなり復興が進んだように見えても、一歩踏み込めばこんな風に復興の途中で置き去りにされた光景がいくらでもあるのだろう...。来た道の先、津波をかぶった広大な更地の突きあたりには、311の津波の後に火災で全焼した石巻市立門脇小学校があったのだが、既に全体をカバーで覆われていて、一部の煤けた壁が見えるだけだった。
(奥に見えるのが門脇小学校)
この門脇小学校の被災校舎は、実は「震災遺構」として残すべきかどうか、石巻市政での議論が始まっていて、予算の問題などもあり場合によっては取り壊しも考えられるのだという。ううむ、それはやっぱり焦ってしないほうがいいのでは...?と、他所者の自分が強く感じることになるのは、この自転車散策と、後述するもう一つの「震災遺構」を目にした経験からなのだが、まずは石巻市街の探索行を続けることにしよう。
ところで、石巻市には石ノ森漫画館というかなり有名な観光スポットがあるのだが、御存知だろうか。
(311で津波被害を受け再オープンした、ドーム型の石ノ森漫画館)
(石巻駅に停車中の石ノ森キャラ・ラッピング車両)
巨匠、石ノ森章太郎のマンガやアニメ作品をテーマにした記念館で、イラストや漫画を描く身としては是非とも訪れておかなければならない聖地だ。ここを最終目的地にして、海沿いに進んで河口に掛かる大きな橋をわたって、石巻市街中心部をだいたい一周して戻ってこようと決めた。
海岸部はまだ通行不能になっている道もいくつかあり、津波の衝撃に建物を打ち抜かれてしまって操業停止に追い込まれた加工工場の跡地なども散見された。活気に満ちていたであろう市場の通りや、ロープで閉鎖された区画を見るのはなんだか胸が痛む。早くこの岸壁がたくさんの船で一杯になればいいと思いながら自転車で走り続けた。
(魚市場前の岸壁)
橋の歩道側は利用する人も少ないのか、アスファルトは剥がれ、砂利の間から草が生えていた。用心して自転車を降りて手で押して通過する。橋の最も高い地点に立って市街を見下ろすと、広大な更地以外は、遠目には津波の爪痕はもう見えなくなったかのようだ。
しかし、決してそうではないことを、ここまで荒れた道に苦労しつつ進んで来た自転車のタイヤが、ちゃんと知っている。眼下に見えるあの家、いくつかの建物は、屋根と壁こそ残っているけど、そこに暮らしている筈の人が、もう居なくなってしまった空家なのだ、と。
(旧北上川にかかる日和大橋)
(別の日に、日和山からの石巻市街の眺望)
振り返ると、水平線に太陽の光が乱舞する海はどこまでも広く穏やかで、本当にこの美しい海が...?と信じられない思いに駆られながら、レンタル・サイクルの返却時間に間に合うように橋を降った。
閉館直前に訪れた石ノ森漫画館は思っていたのとは違い、あまり生原稿などは多くなかった。子ども向けのアトラクション的なものが充実していた気がする。(個人的には「009アメコミ化」ってどうなのだろう...?などと思った。)
●BRTに乗ってみた
三日間滞在した石巻を後にして、気仙沼方面を目指す日が来た。
また新たに青春18きっぷにスタンプを押して貰って、石巻線から気仙沼線へと乗り換えると、そこは途中からは線路ではなく代行バスの区間になる。通過する際の料金はそのまま青春18きっぷを使えるが、この区間では乗る車両が列車から、BRT(バス・ラピッド・トランジット(英: bus rapid transit、BRT)に変わるのだ。
BRTのことは、読者の皆さんはどれくらいご存知だろうか?筆者もこの旅をするまで名前自体をほとんど聞いたことがなかった。バス・ラピッド・トランジット(BRT)とは、アメリカ大陸などで盛んな旅客輸送システムで、地下鉄のような大量輸送が可能な都市での交通を、軌道(線路)ではなくバスを用いて実現しているものだ。専用道を作ってしまうので信号待ちや渋滞の影響も受けずに済み、運行本数も増やせる。と、説明しようとして、まさに誠の過去エントリの中でちょうど震災しばらく後に書かれたこんな良記事を再発見した。BRT以外にも東北の鉄道輸送の将来(あの当時から見た)に関して興味深い内容が語られているので、合わせて読んで頂ければと思う。
が、実を言うと、むしろ「あの時に想定していた未来はどうなったのか?」ということを、今となっては色々と考えさせられるのではなかろうか。結局、今だに東北の沿岸部の鉄道路線は完全に元通りには復旧せず、だからこうして筆者は列車と、BRT表示のあるバス路線とを行き来しつつ、三陸の山深い道を旅しているのだから。そう考えると複雑な気分になった。
(再建工事中の石巻線・女川駅)
外からの観光客を意識してか、BRTは気仙沼、女川、陸前高田...といったテレビで何度も名前を聞いた被災地を通る時には、そこのシンボル的な震災遺構の建物跡等がよく見えるルートを、場所によってはそのすぐ横を、通ってくれる。
(9/9から解体が決まった気仙沼市の第18共徳丸)
それらを見ていてふと、程度の差はあっても、沿岸のいまだ復興途上にある被災地の景色は、どこか似通っていると感じた。海に向かって開けた、山が迫り決して広くは無い土地に、家々の基礎だけが残され、夏草の生い茂った空き地が広がっている。所どころに盛り土用の小高い山が出来ており、その周りには黄色やグリーンやオレンジの重機が忙しく動きまわっていた。
瓦礫は、多くの場所では表面的にはほとんど片付けられているように見えるが、ほんの少し移動して海沿いに行くと壊れた水門や、突き出したコンクリート片がそのまま半ば沈んでいたりした。さらに、その景色の向こうの入江には、陸より先に元の姿を取り戻しつつある養殖の筏や小型の漁船が、ゆったりと波間に揺れていて、良いことだとは思いつつ、どこか不思議にちぐはぐな印象でもあった。
この海は、大津波を起こした海とは違う、別の海なのだろうか?そんなことをつい思ってしまう。
●目指せ、あまちゃん久慈!しかし...
せっかく毎朝テレビでは海女のあまちゃんが「じぇじぇじぇ!」とか言っている(偶然だがちょうど筆者が旅している間に震災編をやっていた)のだから、ここは是非、あまちゃんのふるさと久慈まで到達を目指すべきだろう!ウニ丼味わうべきだろう!と勢い込んで北関東を出て来たのだったが。道中、時刻表とにらめっこするうちに困った事態に陥っていることがわかった。
計画では、一日で石巻を出て気仙沼から海沿いづたいに釜石まで行こうと考えていた。しかしながら震災から二年以上経っても、いまだに東北の三陸沿岸では震災の時に線路が寸断されたまま復旧していない路線があるのだ。(たとえJRではなくても、ポケット時刻表の文字が超~小さい路線図には一応書いてあるから(...線でだが)てっきり繋がっているものだと早合点してしまった。油断である)
上記リンクの過去記事中でも触れられていたが、山田線と大船渡線、三陸鉄道の北・南リアス線の一部が不通区間となっていて、路線バスによる代替運転がある。しかし、これらを一気に乗り継ごうとすると、あまりの本数の少なさに恐ろしく連絡がしづらいのであった。正直、いったん青森側まで北上して、八戸から久慈を目指すほうがずっと速そうである。(ただし運賃は、盛岡―八戸間の青い森銀河鉄道では青春18きっぷが使えないので、そこだけで片道2000円以上かかるが...)
(三陸鉄道のかわいらしい車両)
(釜石は鉄の街)
なんとか気仙沼から釜石まで繋げられないものか?とさんざん脳内時刻表でシミュレーションし、早朝から出発して、一日にわずか数本しか目的地まで連絡しない列車とバスの便をうまく乗り継いで、やっと次の便に乗って終点まで行けば釜石だ、と思ったところまで来た時だ。
ここで筆者は衝撃の、痛恨のミスを犯していたことに気付く。なんと、ポケット時刻表に表示された盛―釜石間の三陸鉄道・南リアス線だが、終点の釜石だけ「二重線」が引かれている...つまり、ここひと区間だけいまだに不通だったのだ!たったひと駅区間というなかれ、山手線とはわけが違う。このあたりの感覚では、次の駅までは余裕で山ひとつ向こうだったりするのだ。おいそれと歩いて辿り着く訳にも行かない(たぶん遭難する)。困った...この日は釜石まで行って、そこから盛岡行きの直通バスに乗って宿に戻り、翌日は朝から久慈を目指すつもりだったのに...これでは終電も終バスも無くなった文字通り「陸の孤島」で身動きが取れないではないか!本気で軽く途方に暮れた。
幸い、親切すぎる盛の駅員さん二人がかりで、盛からも盛岡行き直通があるから~と言ってわざわざバス停まで案内してくれ(しかも二手に別れてそれぞれ見えなくなるまで探しに行ってくれるという恐縮な事態...)やっとその日の内に盛岡まで戻ることができた。しかし大真面目に、あの夕方4時台で既にその日の終電(と終バス)を逃していたと判明した状況で、他に直通の代替交通手段が見つからなかったら、山の中で行き暮れたあげくに、盛岡のホテルのキャンセル料まで取られるところだった...危なかった...と後々までしばらく冷や汗が止まらなかった。このスリルもアナログ旅のだいご味ではあるが(?)。
結局、今回の18きっぷ旅では辿りつけなかった久慈には、またの機会があれば是非、訪れてみたいとは思っている。待ってろよ、ウニ丼!
●「食べて応援」の精神を胸に
ちょうど筆者が旅をしていたまさにそのタイミングで、あまちゃんでは震災編をやっていたが、リアルの世界では西日本に台風が接近していた。そのため日本列島全体の上空で大気が不安定になり、関東では埼玉や栃木などで国内としてはかなり規模の大きい竜巻被害に見舞われている。そんな中、ひたすら次の経由地を目指して列車に揺られる道中で、盛岡から海側を目指す途上の車窓を流れる景色は、まるで「もののけ姫」でも登場してきそうな、もやに霞んだ山また山の連続。墨絵のような色合いはゾクゾクしてくるほどの深山幽谷っぷりというか、雨が窓ガラスを叩き付ける曇天も相まって、なんだか事件の一つも起こりそうである。
そんな景色を眺めながらディーゼル列車の車中で食べる駅弁...そんなの、美味いに決まっているじゃないか。これぞ旅の醍醐味!(ちょっとディーゼルエンジンくさいが気にしない)というわけで、仙台からの牛タン弁当に引き続き、東北を「食べて応援」するための駅弁タイムだ。
この日食べていたこちらがメニュー考える人がご乱心したのか?!と思う位の豪華すぎる駅弁の全貌である。おわかりいただけるだろうか...この「旨そうなもの片っ端から入れました」とばかりの盛り過ぎ感...これで千円とは、蓋にあまちゃん印がついていてもちょっと信じられないほどの過剰サービスである。いや美味しかったですが!お得感ありすぎて申し訳なくなるほど、ウニとかカニとか美味しかったですが!
そうなのだ。こっちへ来てから、寿司を食べた翌日に、また寿司(回るやつ)を食べていたりする。こんなこと全く地元の北関東では考えられないが、そうさせてしまうのが、漁港近くの魚めいた雰囲気というものである。極めてダイエット向きではない。(ちなみに三陸周辺は、海側から内陸の平野部へ一歩入れば、何も知らない関東者がビックリするほどの「米どころ」なので当然ご飯もとても美味しい)
ちょうど石巻で泊まっていたビジネスホテルの真正面が、地元の人が行くような回転寿司のお店だったので、たいして迷うこともなく二度寿司となったのだが。聞くところによると、この地元産の新鮮な魚介を扱うリーズナブルな回転寿司店(後でHP調べたらチェーン店の石巻支店だった)は、あの震災の当時もいちはやく営業を再開しており、まともな食事など期待出来ない覚悟で駆けつけていた報道関係者たちにとって毎日のささやかな憩いの場になっていたのだという。現在でも活気のある店内で味わった寿司ネタの美味しさは忘れられないが、誰も彼もが身心共に疲れ果てていたであろう震災当時には、それはどれほど大事な時間だっただろうか。
温かかったり、新鮮だったり、食べごろにするために人の手が感じられたりする美味しい料理というのは、それだけでもう人間の中の何かを癒すパワーがあるのだと思っているからだ。
ところで、盛岡駅構内のちょっとこぎれいなそば屋で毎日限定20食という「まめぶ汁」を食べてみて、なるほど微妙なりにけっこう美味しかったのだが、あの「まめぶ汁」、ほんとは地元の方々はそもそもアレの存在を知らなかった、という話はたいそうビックリさせられた(割といい話だが)。
と、ここで思い出したように写真は盛岡で食べた冷麺。お店特に調べてなかったけど、こちらも大変美味しかったです。
(後編に続く)