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「エンガワ=縁側」は、完全な「家の中」でも「外」でも無い「宙ぶらりん」な空間。そこには誰でも気楽にぶらりと立ち寄れて、しゃべったりお菓子を食べたり。情報交換や一休みに飽きたら、すいと立ってまた自分の仕事に戻って行ける。そんな風にゆるくて、ちょっと元気をもらえる所。そんな皆が好きな「縁側」で、いつも空を見上げながら何故か「背泳ぎ」をしている…そういう雰囲気のあるブログを綴っていきます。

とある「遺族を囲む会」に参加してきました

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※写真は主催の加藤順子さんからご提供いただきました

少し前のことで先月、7月15日のことなのですが。
都内某所でこちらの連載の著者さん達が主催された「遺族を囲む会」に、偶然にもお招き頂いて参加して参りました。


ダイヤモンドオンライン
『大津波の惨事「大川小学校」揺れる真実』
第24回「なぜ50分間逃げなかったのか」は明らかにならず 遺族が憤る大川小検証委・中間報告の内容



「遺族を囲む会」...と伺って、最初に考えたのは「えっ、いきなり部外者の自分などが招かれたからといって急に参加しても良いものなのだろうか?」というためらい、でした。

正直に"ご遺族"という語感からまず連想したのは、ごく狭い身内同士で行われるしめやかな法事のような会のイメージで、当然のように自分は「ちゃんとした黒い服を着て行くべきだろうか?」とか考え込んでいました。(普段通りの格好でいいと言われましたが)それ以前に、本当の本当に、自分がその場に混じっていいものだろうか?雑音にならないだろうか?と恐れてもいました。

震災当時からネットに張り付きで比較的リアルタイムのニュースを見聞きし、大川小の件についても、「防ぐことが出来た"悲劇"だったのではないか?」という自分なりの仮説みたいなものを抱きつつ、その連載のことも追い続けてきたので、余計に尻込みする面もありました。

そう、どこか遠くの「悲劇だった」のです。自分にとってやっぱり身近なものでは、なかったのです。

だから実際に当日、会場に入り会合に参加してみて、予想してたのとその雰囲気の違いに驚きました。
まるでそれは真剣そのものの「勉強会」のようだったのですから。


恐らく、「大川小学校」の名前を一度も耳にしたことが無い人というのは、今の日本には少ないと思います。

何のことか名前を聞いただけでは思い出せなくとも、「東日本大震災の時に大津波に襲われて74人もの児童と教職員10人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校」と言えば、あぁ、あの...と思い出されるかも知れません。
それくらい、震災関連の中でもかなりインパクトの大きいニュースでした。

その大川小学校のことが、震災から二年が経過した今、どうなっていて何が問題なの?ということは、上記の連載記事の中で報告されていますので、じっくりお読み頂ければと思いますが、端的に言うと「どうもこうも何も解決してない」というところが一番の問題かと、連載を読んでいて部外者の自分にさえ思われました。


まるで「勉強会のようだ」と、囲む会を評したのは、その会合の部屋に用意された無数の事故検証プリント、ホワイトボード、そしてご遺族自身による地道な、専門家も顔負けの詳細な調査・聞き取り・現場検証や報告の内容にほとんどの時間が費やされたこと...などから自分が受けた率直な印象です。

それまで私は、ただご遺族の方々と、"震災当日という過去に向かって"、一緒に「哀しむ」ために、この場に自分が呼ばれたのだと思っていたのですが。
全くそうではなくて、あたかも、"いつか必ず来る、次の震災という未来に向かって"、一緒に何かと「戦う」ために、自分はここに来たのじゃないだろうか?と感じました。

一体、何と戦うのか?
それは「遅々として進まない公による事故検証作業」という理不尽や、「どんどん被災地のことを忘れて行く、今となっては震災のことで新たに何かを知ろうともしない世間」の無理解や、「過ぎて行く時間」や、「無力感」や「絶望」...そんな色々のものと。

自分の愛する子どもを突然奪われるという悲劇にあったのに、ご遺族の方々は後ろを向いてはいませんでした。
むしろ、自らの哀しみを糧として、この国が二度とこういう悲劇を繰り返さずに済むように、前に向かって「何かを変えて欲しい」と必死に訴えておられました。
その場には震災だけではなく、別の方面でご遺族となった方もいたのですが、同様に「(我が子という)"この死"を無駄にはしないでくれ!」と一生懸命に活動されていました。


私達は、どんな風にニュースや報道記事を観たり、読んだりするのでしょう?
それを自分に無関係な「コンテンツ」として日々惰性で消費するために?
あるいは、そこから何か一つでも有用な「情報」として学びとり、「教訓」として将来に備えるために?

ニュースや報道記事に登場する人々って、どんな存在でしょう?
適当に顔と名前らしきものを与えられただけの、ただの記号?
そこにあるのは「生きた人間」の記録などではなく、生々しい誰かの哀しみや、怒りなどではなく、CMに挟まれた薄っぺらいただの映像や文字情報?

本当は、何処かで「あれは自分だったかも知れない」という畏れと共感をもって、厳粛に接するべきものではないでしょうか?

そう思えばこそ、初めて我々は、ニュースや報道記事の中から「どうすれば二度と同じ悲劇を起こさずに済むのか」という問いへの答えを、せめてそこに至る道筋の入り口を、探すことも出来るのではないでしょうか?


この大川小の話は、震災から二年が経っても全く「まとめ」に近付いているのではなく、ご遺族の方々の哀しみは癒えるどころか新たに抉られるような報告ばかりで、それを指摘するこの連載の記事にも「今更、何のための犯人探しを?」というような皮肉なコメントが投げつけられるような状況です。部外者の自分でも憤りを感じるほどです。

どうしてこんなことになっているのか。
関わって日が浅い自分に想像出来ることなどたかが知れていますが、それでも感じ取れるのは、例えば太平洋戦争関連のドキュメンタリーや書籍などに頻繁に見られる「結局、誰も責任を明確に取らない日本社会」という縮図です。

後世の人々がどんなに「...何でそんな愚かなことを?」と思ってしまうような決定(もしくは不作為)でも、その当時、その場にいて同じ空気を共有していたなら、ほぼ確実にほとんどの日本人が「総論賛成・各論反対」という流れに巻き込まれる、あの強固な"同調圧力"のようなもの。
大川小の事故の検証を追い続ける、あの連載を通して自分がずっと感じていたのは、そんなことでした。

あの壊滅的な敗戦をくぐり抜け、今回の千年に一度と言われる大震災を経験してさえも、日本人は変わらないのか?
こんな絶望感に軽く捕われるくらいには、連載から見えてくる風景は理不尽に満ち、荒涼としています。

けれども同時に、大川小の事故は、「もしもあの時、そこにいたのが自分だったら、どう行動し、何が出来たのか?」と必ずひるがえって問いかけられることも確かであって...。
だからこそ、思わず戦慄するのです。


幸いにも、今、こうして自分は生きてブログを書いています。
この先、大川小の問題に対して自分が何かを出来るかどうか?は、現段階ではまだ完全に未知数です。
でも、決して忘れてしまうことだけは、無いと思います。

小学生だった娘さんを亡くされたご遺族のお父様(別の地区で中学校の先生をされていた方)が、こう仰っていたのが印象的でした。
「今は、学校に通ってくる子どもたちが"命"に見える。」

いつまでも震災を忘れないこと。それこそが最大の「防災」なのだと、あの日、ご遺族の方は教えてくれました。この日本という土地に生きる以上は、地震は絶対的に「過去」ではなく、いつかの「未来」でもあるのだということを。
だから、その時のために我々は「何が出来た?それでどうする?」と問い続け、考え続けなければならないのだと。

大川小を含め、あの震災で亡くなった全ての方々に心からの黙祷を捧げます。
前へ進むために。



シリーズ連載:大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ真実~
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