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「エンガワ=縁側」は、完全な「家の中」でも「外」でも無い「宙ぶらりん」な空間。そこには誰でも気楽にぶらりと立ち寄れて、しゃべったりお菓子を食べたり。情報交換や一休みに飽きたら、すいと立ってまた自分の仕事に戻って行ける。そんな風にゆるくて、ちょっと元気をもらえる所。そんな皆が好きな「縁側」で、いつも空を見上げながら何故か「背泳ぎ」をしている…そういう雰囲気のあるブログを綴っていきます。

pixiv騒動とかその辺りについて個人的に思うこと

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どうも御無沙汰してます。前回のエントリがお正月(半年前...)とかいう事実に自分で驚愕したりしました。。
唐突に、久しぶりにブログでちゃんと考えてみたいことがあったので、どこまでちゃんと書けるか不明ですが、ちょっと無謀にもチャレンジしてみます...。とはいえ、リハビリが必要な状態だと思うので、お手柔らかに。。(汗)

何の話かと言えば、ここ数日で俄かに大きくなってしまった感のある、この件ですが。

pixivが一連の騒動を釈明 「創作活動が快適に行える場でありたという基本に立ち戻る」 

...自分は、この中で話題に出ている「現代アート」団体のほうには正直、あまり興味を持って追っていなかったので情報を大して持っておらず、詳しくもないので、こちら側の話はあまりしません。
ので、主に、個人的にイラストを置かせてもらっているなど「世話になっている」面もある、イラストSNSとしてのピクシブ側の話に範囲を絞って考えてみることになると思います。ご了承下さい。

記事のタイトルには「創作活動を(快適に)行う場」とありますが、実際には、ピクシブ等のいわゆる「イラストSNS」は、そこ自体が「制作の場」ではなく、むしろ「発表の場」あるいは「置き場」というのが正しいと思います。
本来なら「画像(のリンク)が大量に置かれているだけの場所」を、これほど注目される大きな「場」にしたものは、同好の士を見つけやすくする「タグ」や、最近の流行などを可視化する「ランキング」などの、サイト表示の仕組みやその使いやすさ、見やすさ、などの(かつては目新しかった)充実した機能でした。

特にピクシブは、この記事の下段にリンクが張られている関連過去記事を読んでもわかるのですが、サイト開設当初からハイスピードに、ほとんど倍々ゲームのように増え続ける国内外からの膨大なアクセスに対応するためにサーバ増強を繰り返してきた経緯もあり、そのお陰もあって投稿や閲覧する人が集中し易い連休や、様々なイベント時にも「あまり落ちない」、(規模の割には)比較的ストレスなく自分の絵を見てもらえる、見ることができるという一定の信頼性も獲得していたように思います。
情報セキュリティなどの面でも、一個人のアイデアから始まったサイトであっても、今は会社組織になっているということから来る安心感、なども恐らくは多くの人の中にはあったでしょう。

その最も重要なユーザーからの「信頼」の部分が、今回の件で揺らいでしまっているのだと思います。

「画像置き場」であるピクシブのようなSNSを指して、「画廊」に例える人もいますが、自分はそれよりはむしろ「好きなように作品を並べて人に見せていい、ネットという仮想空間上の"ストリート"」だと考えました。
画廊にあるのは、原則的にすべて「値段のつけられた作品」であり、対してストリートにあるのは、中には対価を得るものもあるかもしれませんが、ほとんどは「タダで見てもらって構わない、という姿勢で展示される作品」です。

販売の目的をもって私的に運営される画廊には、販売者による厳密な「審査」があり、それに合致しない作品は置かれることはありません。ストリート自体は「公共の空間(例えどこかの店舗に面していたとしても)」であり、その場所に「参加」するのに誰かの「審査」や「許可」は必要ありません。誰でも、そこに自分の作品を置くことが出来る。
もっとも、どこの交流サイトにも「運営規約」というものはあり、それに違反する投稿は削除されます。しかし、ピクシブの場合はその基準がかなりゆるく、エロやグロも含めて、良く言えば許容範囲が幅広く、悪く言えばごちゃごちゃのカオスな有様であって、けれども、その「豊穣な混沌」こそあのサイトの存在意義と考える人も少なくなかった筈です。

そのことは「二次創作」がテーマの作品にも同じことが言えました。既存のある作品にインスピレーションを得た、あるキャラクターへの愛や萌えをつめこんだ、ある作品への独自の解釈を展開した、そういう、版権ビジネス的に考えれば「グレーな」表現にも、かなり寛容(というか放任にすら見えた)だったのが、人気の理由には違いなかったのです。
二次創作的な作品を作る人間にとっても、各自のサイトなどで孤立してやっているよりも、そういうSNSの大規模な場で、同好の大勢の仲間と一緒にやっている方が、ある意味「守られている」ような安心感があったかも知れません。
(本当は、検索などのことを考えれば全くそんなことは無かったのでしょうが。)

さて。
ここで問題はピクシブが「画廊よりはストリート的で」あろうとしていたとして、今回はどうあるべきだったのでしょう?

私には、今回の件ではピクシブが自らの最大の特質であるその「ストリート的であること」を破ってしまったことに問題があったように思えます。多くの人が言っている「削除基準のダブルスタンダード」という点です。

「アート」の名で呼ばれるか否かに関わらず、「表現」という行為は必ずしも全てが「心地よいもの」ではなく、またそうある必要も無いと考えます。理由は、それが人間という存在の本質に根ざしているからです。
「心地よい」「善である」人間しかこの世に存在してはならない、となったら、世界はたちまちその「基準」を巡り大混乱に陥るでしょう。
社会を維持して行く上で法律やある程度の規範はどうしても必要で、犯罪を犯した者は罰せられます。
しかし、時としてその「法」や「正義」すらも、社会の有り方によって規定され、人が「人らしく」生きることを困難にする場合があることを、我々は多くの歴史から学んできています。
そういう場合に、笑い、皮肉、諧謔、時には恐怖、哀しみ、奇怪さや、違和感...そういう感覚に訴えて「異議をとなえる」ことや、「何かを思い起させる」ことを、手段として完全に放棄してしまうのは社会にとって危険なことです。
狭い意味での「アート」に限らず、「表現」するということは、本来そういう面を持っているのです。

私がピクシブというコミュニティに感じていた面白さも、そこにありました。
あまりにも雑多で、何でもありで、それゆえに「熱帯雨林」のように、そこでは多くの「希少な存在の仕方」までもが許されている、と思えたのです。しかも、それらがお互いを見つけ、「仲間」として繋がる機能さえ持っている。

「イラストを介した交流の場としての"懐の深さ"」こそがピクシブの特質であり、長所であったとすれば、そこにこだわるべきだったと思うのです。
自分たちのサイトが持っている「何でもありの、ゆるい基準」を、ある意味「忠実に」守って、批判された作品も、それを批判し、皮肉り、おちょくるような作品も、全てを平然と掲載し続けるべきだった。「表現の自由」に従うなら。
しかし似たようなテーマ・意図の下に制作された一方の作品が残され、他方の作品が削除されたことは、やはりそこには「企業スポンサーもつく大規模イベント」などの、「お金」の問題が関わっているのだろうと想像されてしまいます。
真偽はどうあれ、そのような想像をされてしまったことは、イメージ的には大変なマイナスだったのだろうと。

しかし、と思います。
どうして急に「お金」のイメージが浮上してきたのだろう?逆に言うと、どうしてこれまでは無かったのだろう?

理由は簡単で、ニコ動にせよピクシブにせよ、「お金」の気配を少しでもさせたとたんに、物凄く叩かれたからです。
ピクシブについては、過去に少なくとも一回以上、「人気のある作品に何がしかの利益が還元される"投げ銭"のような仕組み」が導入されようとして、ユーザーの猛烈な反対にあって撤回した、という経緯がありました。結局は「ポイント」という形で残りましたが、それにも換金に類する機能は一切ありません。(図書券的な機能さえも)

ところが今年の震災の後、ピクシブがサイトを通じてユーザーに「ピクシブ・ポイントによる寄付」を募りました。大勢の人が進んで寄付をしましたが、前述した通り、「ピクシブ・ポイントに現金と交換される機能はない」のです。
つまりその「ピクシブ・ポイントを変換して行われた寄付」は、全てピクシブという会社が「立て替えた」ことになります。
...なんだか変な話だ、と思ったのは自分だけでしょうか?


イラストや漫画を描くということは、それが手の込んだレベルの高い作品であればあるほど、多大な時間と労力を必要とします。それはオリジナルであろうと二次創作であろうと変わりはありません。

どこかの誰かの作品や、版権ものを下敷きにしない、完全な「オリジナル」の世界観を創り上げることは、一度でも「作り手」を志したことのある人になら判るはずですが...ことによると何年、何十年もの構想や考察、資料集め、推敲やブラッシュアップを経なくてはならない、人間力を総動員した、凄まじく困難でチャレンジングな行為です。
それほどの苦労をして生み出した「オリジナル」の、独自の世界観も、多くの人にその存在を見出だされ、愛され、その作品のファンが集まってコミュニティを構築できるまでに広がるのは、奇跡的と言ってもいいくらい珍しいことです。

ピクシブを見て回る時にいつも不思議に思っていたことがあります。
「どうしてこんなに皆、巧くてセンスも良くて、才能ある人が溢れているんだろう?」という素朴な疑問です。

体験的にですが「会社に所属してフルタイムで絵やデザインを仕事にしている人」というのは、そうそう頻繁にピクシブのような場所に作品を投稿できないのではないか?と思います。
とすると可能性として幾つか考えられるのは、フリーランスの人か、学生か...時間のとれる立場の人になります。

当たり前ですが、給料制ではないフリーランスの職業の人が二次創作などの作業に時間を割く場合、その時間は「仕事をしていない」ことになるので、無収入の時間ということになります。しかしそれは本人も好きで納得ずくでやっていることなので、誰にも非難することも、されることもあり得ません。仕事に追われていても、どうしてもやらずにはいられない...という感じで好きな作品に向かってしまう人も多いのではないか?と思います。
ピクシブのような場では、そうして作った作品を喜んでくれる同好の士が居るし、自分も他の人の力作を見られます。
問題は、それをやりすぎると「リアルに飢え死にしてしまう」ということで...。(汗)

「好きなことをしているのだから労力に対する対価などいらないだろう?」「人の作品を"二次創作"という形で無断利用している身分なのだから。権利者から目こぼしされているだけなんだから、隠れるのは当然だろう?」「他人の権利侵害をしておいて、自分らの何を慮り尊重して欲しいなどと言えるのか?寄生虫だろう。恥ずかしくないか?」

そんな声が四方八方から聞こえてきそうです。だから、何はともあれ「居心地良く居られる」ピクシブや、コミケのような場所があるだけでも有り難い、と言うことも出来るのかもしれません。
...しかし、本当に「版権の二次創作」や「キャラクターへの萌え妄想」が「悪」であり、「排除されるべき」ものであるとしたら、何故それは悪い言い方をすれば「放置」されているのでしょう?最近では、そうしたムーブメントを当初から予測し企画段階から織り込んで制作されるジャンルも少なくないという話もあるのに?

コミケ=コミックマーケットなどにも近年は様々な企業の協賛や企業ブースへの参加があり、その模様はたびたびニュースなどでも取り上げられ、すっかり日本の風物詩となっている...これは「認められている」のでしょうか?
巨大化したコミケのような場が「市民権」を得て来たことと、ピクシブのような企業がスポンサーを得られるようになること、その中で創作され共有されているのが多くの「グレーな」二次創作であること...これらは全く無関係なのか?

これらのことは、将来もずっと「認知」はされないままなのでしょうか?

リミックスや二次創作は、今後も永久に「グレーな、お目こぼしの産物」であり、それに精力を傾ける人は「何の評価にも値しない、お金にならないことを好きでやっているだけの変人」であり、「馬車馬のように働いて体を壊したり燃え尽きたりしてしまう、割合としてはごくわずかなプロ」との間はますます開いて行くだけ?

また何処かの誰かを感情的に叩くだけ叩いて、溜飲を下げて、それでいつの間にか人々から忘れられて終わり...ということになるのかどうか。
そうしていつまで経っても、肝心な、本質の議論は深まらないのでしょうか?
本質とは、「このネット時代にコンテンツ制作の有り方はこれからどうあるべきか?」です。
ここを真剣に議論しないまま、経済としての規模が大きくなったからという理由だけで「グレーだけど目こぼし」しているというのが現状でしょう。基準が誰の中にも明確でないから、そもそも「スタンダード」があり得ないのです。
本当に「ダブルスタンダード」なのは、現在のこの私達の社会そのものではないでしょうか。

私個人のことを言えば、ピクシブやニコ動やコミケのような「場」があったからこそ出会えた、かけがえのない作品や仲間の存在があって、それについて何ら自分の中で恥じることも、隠れる必要も感じてはおらず、「好きなものは好き」を通せるのはこの上なく幸せなことだと思っています。そうできる「場」が、これからも続いて行くことを心から願っています。

だからこそ、コンテンツの作者も、ファンも、誰もが「納得」し、またなるべく皆が「幸せ」でいられるような、誰の目にも「フェアなルール」がきちんと作られて、共有されるのが望ましい。そういう日が早く来ればいいと考えています。

もしも、非常に大きくなってしまった今回の件が、その議論のきっかけになれるのであれば、決して無駄にはならないと思うのですが。



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