「老人」と、「私」と、「無縁社会」。
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鼻水がようやく収まってきたので、ちょっとボーっとした頭で書いてます。。(どうでもいいけど、鼻水が止まらない時って、どうしてやたら厭世的な気分に陥るのでしょうね...?笑)
いやぁ、昨日(9/8)は台風凄かったみたいですね~都内とか。
こちらはちょっと都心からは離れた北関東の割と田舎の某市在住なので、嘘のように雨も風も、何とも無かったんですけどね。。(汗)
っと良くわからないツカミで始めてみますよ~♪(笑)
で、本エントリのタイトルの「無縁社会」ですが...ご存じの方はいらっしゃいますかね?
ご存じない方は、まずこちらをチラリと見て頂ければ。。とても意欲的なシリーズなので、もしご興味お持ち頂けたら次回からでも是非!と回し者のごとくお勧めしてみたり☆(笑)
↓
NHKスペシャル「無縁社会」公式ホームページ
前回プログラムは、結構タイムリーな感じで「非実在高齢者問題」とかを扱っていたので、新聞のテレビ欄とかで存在だけは知ってる人もいますかしら?...と強引に話を振る。。(汗)
このシリーズ、もぐは今年一月放送の第一回(Nスぺ。追跡AtoZじゃないほう)から、ずっとチェックしてるのですが。
これまでのNHKスペシャル関連ではあまり無かったことに、とりわけネット上で、それも30~40代の比較的若い層に、ある衝撃を持って受け止められているらしいのですね。
「ひょっとして、いずれ自分も"無縁"になるのではないか?」
「"孤独死"はしたくないけど、貧乏な自分にはとても結婚なんて出来そうもない...」
「いや、伴侶や子がいて、社会的地位もあった人でさえ、あっという間に転落してしまうぞ」
「こうやって"やっぱり大家族制度がいいんだ!"って押しつけるみたいなのは良くない」
「結局、死ぬ時はみんな一人だし、孤独だってその人の自由なら別にいいじゃないか―。」
当時、自分のツイッター上のタイムラインにも、色んな意見が活発に飛び交っていました。
どうも番組は、みんなの心の奥底に在ることはあったけど、表には決して出ていなかった恐れというか疑念というか、何とも形容しがたい重たいものを一気に炙り出したようです。。
どんな死に方を選ぶか?というのは、それこそ個人の選択の問題なので深入りはしないことにして。今日は自分なりに「高齢者」のことに話を絞って行こうと思いますが。
過去の誰かの跡をたどることが、別の誰かの未来を選ぶ際の道標になる...こともあるし。
とりわけ「高齢者」を語る時に、自分には必然的に帰って行く場所が一つあります。
だいぶ前に亡くなった祖母の記憶です。
祖母は50代の頃に患った脳梗塞が元で、亡くなる数年前から痴呆の症状が出てきていました。(たしかアルツハイマー型ではなかったです。)
祖母の痴呆の症状が重くなったのは、私が大学の三年から四年にかけての頃でした。
食事や排せつ、入浴といった日常行為が一人では出来ず、家族が目を離すと「徘徊」と言ってどこかへ居なくなってしまいます。その度に大騒ぎで周囲を探すのです。
当時、実家では自分の母と祖父が交代で、つきっきりで在宅介護をしていました。
ちょうど介護保険制度が始まったばかりの時期だったように思います。
費用のことや申請等の細かいことは、母がしていたので私はわからないのですが、ともかく、下宿ではなく実家から通学していたので、ずっと私は介護の現場の近くにいました。
あの時...というのは「本格的な痴呆老人の介護」が始まったばかりの頃ですが、あの時、私の母(つまり祖母の娘)も、祖父(つまり祖母の夫)も、酷く"混乱"していたように見えました。
といっても、介護の行為自体にではありません。
「自分の妻、自分の母"だった"人が、段々と"見知らぬ何者か"に変わってゆく」―そのような不可思議な感覚があったのかも知れません。..."恐怖"、だったのかもしれない。
さっきまでしていた事(ご飯とか)を、見事なまでに完全に忘れる。
出来ない家事をやろうとして、火のついたコンロにプラスチックの容器を平然と乗せる。
どしゃぶりの雨の中ふらりと出て行ったきり何時間も戻らないで、道端に倒れている。
検査のためのほんの簡単な作業が理解出来ず、自分の名前の書き方も忘れる。
絵を描かせればこの世のものとも思えぬような不気味な模様をぐじゃぐじゃと描き殴る。
しまいに、同居している家族の名前も、顔も忘れて、別の誰かの名前を連呼する...。
おびえていたのは、多分、祖母も同じだったのだと今は思います。
家族みんなが、「何が起きているのか?」を本心からは理解出来ず、ただただ目の前に展開する果てしない困難な労働を必死でこなしているだけだった。それで精一杯だった。
当然のように、介護する側の母も祖父も日に日に疲弊して行きました。
私は同じ家にいる以上、割と当然の成り行きとして、少しずつ介護を手伝い始めました。
大学も四年になると卒論作業がメインで、あまり一週間みっちり通学しなくても良い時期だったのは思えば幸いだったかも知れません。
「このまま"二人交代制"で介護を続ければ、いずれ介護側のどちらかに死人が出る」
当時、私は割と冷静に状況をそう判断していました。
だから、そこに私が「遊軍」的に混ざることで、各自の作業量を1ずつから0.5ずつ、くらいに下げられるはずだと考えました。それは実際にその通りで、入浴の介助にしても食事の介助にしても、常に1.5人分くらいの作業量が可能で、かつ、メインのどちらか一人は休めるというわけです。(遊軍はいつもいるとは限らないので1.5にしておいた...アレ?ちょっと計算おかしいのか??笑)
...こんな風に書くと「家のこと手伝ってるオイラ偉い☆」みたいなプチ自慢話に終わりかねない感じですが(笑)。本当は、そんなに綺麗な話じゃありません。
当時の私は、まぁ...そのくらいの年代の若者のご多分に洩れずなんでしょうが、全く「自分という存在」に価値を見出だせていなかったのです。
不況下の、家族が大変な時に、馬鹿高い学費を"浪費"して大学に通い、よりにもよってすぐには役にも立ちそうにない学科(芸術学)を学び、何ら意味があるかもわからない「卒論」に労力を注ぐ...一体、こんな「社会にとって何の役にも立たないクズ」が生きていていいのか?居ない方が色々と"まし"なんじゃないのか?そうしたら金だって余計にかからないし...なんてね。。(苦笑)
本当に、本心からそう思っていたのです。
だからきっと、あの時の私にとっては、介護要員として「0.5人分だけ必要とされる」ことだけでも、心の底では嬉しかったんじゃないかと思うんですよ。ちっさいことですけど!(照)
それと、もう一つ私があの経験から得たものがあったとすれば。
痴呆を患っている祖母自身と「何か」を通じられた、という手応え、みたいなものです。巧くは言えないのですが...。
あの時、痴呆がどんどん進行して、比較的最近の記憶や、行動の自由を失い、文字通り、脳が"壊れて"行く中で...ちょうど私と二人きりだった時、祖母がこう言ったのです。
「(着ている服をつまんで)...ここに火をつけて、死ぬんだよ。」
そう話した祖母は笑いながら目に涙を一杯に溜めていた。
痴呆老人によくある、わからないのをごまかすための薄ぼんやりした笑みではなく。
珍しく比較的はっきりとした意識の中で、あの時、祖母は「死にたい」と私に言ったのだ。
痴呆でぼやけた意識の中でも、祖母はちゃんと、自らの存在が家族みんなの重い負担になっていることを理解していた。
わからないこと、忘れてしまうこと、何も覚えられないことを母や祖父(と、たまに私)から叱られ、ヒステリックになじられながら、自分さえ居なければ...と、そう思っていたのだった。
ああ、そうか。
「この人たち」も、きちんと傷つくのか。
その肉体の何処かには、まだ「心」があったのか...。
それは私にとって非常に新鮮な驚きでした。
見たことある人は分ると思うのですが、それほど、痴呆の症状が進行した人の反応というのは時に鈍くて、表情も少なく、行動は多くの場合、介護する側にとって理解不能なので。
...誤解を恐れずに言えば、介助される身体というよりは、重くて動かすのが大変な"モノ"―食物を飲み込んで、排せつするだけの、ただの肉塊―嘘ではなく、そんな風にさえ思うことがあったのです。これが意思の疎通が出来ずに介護する側の、時に偽らざる心境です。
だから、目の前の相手が「死にたい」と意思表示したことに、私は心底驚いたのです。
...そして同時に、とても嬉しかった。
もう無理なんだと思いこんでいた相手との「交流」―。私と、祖母との間に、細い一本の「道」が通じた瞬間のように思えたのでした。
その場で私は祖母と一つの「契約」を交わしました。
「(意識がちゃんとあるとすれば、恐らく幼児のような扱いをされることに屈辱を受けているだろうから)...これはね、「お芝居」なんだよ。もし良かったら、私達がやることに付き合って、おばあちゃんは"赤ちゃんのふり"をしてくれないかな?そうしたらきっと上手く行くから。」
その代わり、あなたの本当の「心」の在り処は、この私がちゃんと預かるから―。
祖母は涙を浮かべたままちょっと笑って、「そうかい。」と答えました。
...本当は、「私が一緒に死んであげるよ。」と、そう伝えたかった。実際に言ったと思う。
でも私達は二人とも、その時、死なずに共に生きることを選んだ。
それは或いは、痴呆の進んだ祖母と、将来を見失いかけた大学四年生の私との、か細い、けれど大事な、孤独な人間同士としての「縁」の結び直された日だったかも知れません。
その内緒の「契約」以降、祖母はたいそう素直になって、何もわからない子供がされるままになるように、風呂も、散歩も、オムツ替えも、にこにこと受けるようになりました。協力的と言っても良い態度でした。それを見て母や祖父もだいぶ接し方が柔らかく変わりました。
時々、私達はそっと目配せをして、どの時点まで覚えていたかは不明ですが、祖母は私にしかわからない笑顔を返してくれることもありました。...もっとも私のことは、ずっと昔に肺病で亡くなった妹か誰かだと思っていたようですが。(私の知らない名前で何度も呼ばれたのですが、どうも定かでない...)
それは祖母が入院して、もう意識が戻らなくなる、本当に死の直前まで続きました。
まだ私と祖母の間で意思の疎通が出来た最後の時。
あれは病院に入る前の晩でしたが...その夜、布団の中の顔を覗き込んだ私に向かって、祖母は、何一つ意味の通らない言葉(?)を、しかし、とても親しげな口調で、ずっと、ずっと話し続けていました。
電気を消された部屋の暗がりの中で、こちらを見上げる祖母のつぶらな黒い瞳が、まるで満天の星空を抱いたようにきらきらしていて...何だかすごく楽しそうに、まるで本当の自分の弟妹か、さもなければ、幼い頃の一番仲が良かった友達にでも話しかけるみたいに...。
私はただ理解できないそれに、いちいち「うん、うん。」と相槌を打っていたのでした。
それは、永遠に続くかのような優しい夜だった―。
私達は人間として、「自分の時間=人生」というものを割と必死に生きているので。
時々、別の誰かにも、自分がそうしているのとそっくり同じように、「生きてきた時間=人生」というものが存在するのだということを、忘れてしまったり、気づかなかったりするものです。
特に、自分ともの凄く、容姿というか、在り方が違う相手(人種的特徴、年代、性別とか...)ほど想像が働き辛いのか、その傾向が多いように感じます。
しかし...昔の人は上手いこと言いますね、「一寸の虫にも五分の魂」というくらいに、目の前のどんな相手にも、その人なりに生きてきた「人生」というものがあり、抱えている「心」だってある。外からは簡単に見えないというだけで、ちゃんと、あるのです。
その、見えない「心」にほんのちょっぴり触れられた(と思える)瞬間が、あるかどうか。
...例えきちんとした「1」じゃなくて、ほんの「0.5」以下の関わりでもいい。
それを「縁」って言うんじゃないのかな?
だから、何十年も同じ家の中に住んでいたって「無縁」は全然ありうるし、たまたま知りあった名前も知らない赤の他人にすごく「縁」を感じられることだってある。そんなものだろう。
とりわけ長びく不況の今、余裕の無くなった社会では「泥沼の世代間闘争」とも言うべき、お互いを抽象化した「老人vs若者」みたいないがみ合いの構図さえ見えるわけですが。。
(その手の「反目」は老若だけじゃなく、男女とか、正規非正規とか...まぁ色々とね...)
そういう沢山の哀しい「無縁」を。
ささくれだった「心」とか、冷え切った「関係性」とかを、少しずつでも乗り越えて、困難な状況を変えて行ける「物語」を、いつか、皆と語れるようになりたいなと私は思うのですよ。
祖母のあの最後の、澄んだ星空のような瞳を思い出す度に...そう、強く願うのです。
いやぁ、昨日(9/8)は台風凄かったみたいですね~都内とか。
こちらはちょっと都心からは離れた北関東の割と田舎の某市在住なので、嘘のように雨も風も、何とも無かったんですけどね。。(汗)
っと良くわからないツカミで始めてみますよ~♪(笑)
で、本エントリのタイトルの「無縁社会」ですが...ご存じの方はいらっしゃいますかね?
ご存じない方は、まずこちらをチラリと見て頂ければ。。とても意欲的なシリーズなので、もしご興味お持ち頂けたら次回からでも是非!と回し者のごとくお勧めしてみたり☆(笑)
↓
NHKスペシャル「無縁社会」公式ホームページ
前回プログラムは、結構タイムリーな感じで「非実在高齢者問題」とかを扱っていたので、新聞のテレビ欄とかで存在だけは知ってる人もいますかしら?...と強引に話を振る。。(汗)
このシリーズ、もぐは今年一月放送の第一回(Nスぺ。追跡AtoZじゃないほう)から、ずっとチェックしてるのですが。
これまでのNHKスペシャル関連ではあまり無かったことに、とりわけネット上で、それも30~40代の比較的若い層に、ある衝撃を持って受け止められているらしいのですね。
「ひょっとして、いずれ自分も"無縁"になるのではないか?」
「"孤独死"はしたくないけど、貧乏な自分にはとても結婚なんて出来そうもない...」
「いや、伴侶や子がいて、社会的地位もあった人でさえ、あっという間に転落してしまうぞ」
「こうやって"やっぱり大家族制度がいいんだ!"って押しつけるみたいなのは良くない」
「結局、死ぬ時はみんな一人だし、孤独だってその人の自由なら別にいいじゃないか―。」
当時、自分のツイッター上のタイムラインにも、色んな意見が活発に飛び交っていました。
どうも番組は、みんなの心の奥底に在ることはあったけど、表には決して出ていなかった恐れというか疑念というか、何とも形容しがたい重たいものを一気に炙り出したようです。。
どんな死に方を選ぶか?というのは、それこそ個人の選択の問題なので深入りはしないことにして。今日は自分なりに「高齢者」のことに話を絞って行こうと思いますが。
過去の誰かの跡をたどることが、別の誰かの未来を選ぶ際の道標になる...こともあるし。
とりわけ「高齢者」を語る時に、自分には必然的に帰って行く場所が一つあります。
だいぶ前に亡くなった祖母の記憶です。
祖母は50代の頃に患った脳梗塞が元で、亡くなる数年前から痴呆の症状が出てきていました。(たしかアルツハイマー型ではなかったです。)
祖母の痴呆の症状が重くなったのは、私が大学の三年から四年にかけての頃でした。
食事や排せつ、入浴といった日常行為が一人では出来ず、家族が目を離すと「徘徊」と言ってどこかへ居なくなってしまいます。その度に大騒ぎで周囲を探すのです。
当時、実家では自分の母と祖父が交代で、つきっきりで在宅介護をしていました。
ちょうど介護保険制度が始まったばかりの時期だったように思います。
費用のことや申請等の細かいことは、母がしていたので私はわからないのですが、ともかく、下宿ではなく実家から通学していたので、ずっと私は介護の現場の近くにいました。
あの時...というのは「本格的な痴呆老人の介護」が始まったばかりの頃ですが、あの時、私の母(つまり祖母の娘)も、祖父(つまり祖母の夫)も、酷く"混乱"していたように見えました。
といっても、介護の行為自体にではありません。
「自分の妻、自分の母"だった"人が、段々と"見知らぬ何者か"に変わってゆく」―そのような不可思議な感覚があったのかも知れません。..."恐怖"、だったのかもしれない。
さっきまでしていた事(ご飯とか)を、見事なまでに完全に忘れる。
出来ない家事をやろうとして、火のついたコンロにプラスチックの容器を平然と乗せる。
どしゃぶりの雨の中ふらりと出て行ったきり何時間も戻らないで、道端に倒れている。
検査のためのほんの簡単な作業が理解出来ず、自分の名前の書き方も忘れる。
絵を描かせればこの世のものとも思えぬような不気味な模様をぐじゃぐじゃと描き殴る。
しまいに、同居している家族の名前も、顔も忘れて、別の誰かの名前を連呼する...。
おびえていたのは、多分、祖母も同じだったのだと今は思います。
家族みんなが、「何が起きているのか?」を本心からは理解出来ず、ただただ目の前に展開する果てしない困難な労働を必死でこなしているだけだった。それで精一杯だった。
当然のように、介護する側の母も祖父も日に日に疲弊して行きました。
私は同じ家にいる以上、割と当然の成り行きとして、少しずつ介護を手伝い始めました。
大学も四年になると卒論作業がメインで、あまり一週間みっちり通学しなくても良い時期だったのは思えば幸いだったかも知れません。
「このまま"二人交代制"で介護を続ければ、いずれ介護側のどちらかに死人が出る」
当時、私は割と冷静に状況をそう判断していました。
だから、そこに私が「遊軍」的に混ざることで、各自の作業量を1ずつから0.5ずつ、くらいに下げられるはずだと考えました。それは実際にその通りで、入浴の介助にしても食事の介助にしても、常に1.5人分くらいの作業量が可能で、かつ、メインのどちらか一人は休めるというわけです。(遊軍はいつもいるとは限らないので1.5にしておいた...アレ?ちょっと計算おかしいのか??笑)
...こんな風に書くと「家のこと手伝ってるオイラ偉い☆」みたいなプチ自慢話に終わりかねない感じですが(笑)。本当は、そんなに綺麗な話じゃありません。
当時の私は、まぁ...そのくらいの年代の若者のご多分に洩れずなんでしょうが、全く「自分という存在」に価値を見出だせていなかったのです。
不況下の、家族が大変な時に、馬鹿高い学費を"浪費"して大学に通い、よりにもよってすぐには役にも立ちそうにない学科(芸術学)を学び、何ら意味があるかもわからない「卒論」に労力を注ぐ...一体、こんな「社会にとって何の役にも立たないクズ」が生きていていいのか?居ない方が色々と"まし"なんじゃないのか?そうしたら金だって余計にかからないし...なんてね。。(苦笑)
本当に、本心からそう思っていたのです。
だからきっと、あの時の私にとっては、介護要員として「0.5人分だけ必要とされる」ことだけでも、心の底では嬉しかったんじゃないかと思うんですよ。ちっさいことですけど!(照)
それと、もう一つ私があの経験から得たものがあったとすれば。
痴呆を患っている祖母自身と「何か」を通じられた、という手応え、みたいなものです。巧くは言えないのですが...。
あの時、痴呆がどんどん進行して、比較的最近の記憶や、行動の自由を失い、文字通り、脳が"壊れて"行く中で...ちょうど私と二人きりだった時、祖母がこう言ったのです。
「(着ている服をつまんで)...ここに火をつけて、死ぬんだよ。」
そう話した祖母は笑いながら目に涙を一杯に溜めていた。
痴呆老人によくある、わからないのをごまかすための薄ぼんやりした笑みではなく。
珍しく比較的はっきりとした意識の中で、あの時、祖母は「死にたい」と私に言ったのだ。
痴呆でぼやけた意識の中でも、祖母はちゃんと、自らの存在が家族みんなの重い負担になっていることを理解していた。
わからないこと、忘れてしまうこと、何も覚えられないことを母や祖父(と、たまに私)から叱られ、ヒステリックになじられながら、自分さえ居なければ...と、そう思っていたのだった。
ああ、そうか。
「この人たち」も、きちんと傷つくのか。
その肉体の何処かには、まだ「心」があったのか...。
それは私にとって非常に新鮮な驚きでした。
見たことある人は分ると思うのですが、それほど、痴呆の症状が進行した人の反応というのは時に鈍くて、表情も少なく、行動は多くの場合、介護する側にとって理解不能なので。
...誤解を恐れずに言えば、介助される身体というよりは、重くて動かすのが大変な"モノ"―食物を飲み込んで、排せつするだけの、ただの肉塊―嘘ではなく、そんな風にさえ思うことがあったのです。これが意思の疎通が出来ずに介護する側の、時に偽らざる心境です。
だから、目の前の相手が「死にたい」と意思表示したことに、私は心底驚いたのです。
...そして同時に、とても嬉しかった。
もう無理なんだと思いこんでいた相手との「交流」―。私と、祖母との間に、細い一本の「道」が通じた瞬間のように思えたのでした。
その場で私は祖母と一つの「契約」を交わしました。
「(意識がちゃんとあるとすれば、恐らく幼児のような扱いをされることに屈辱を受けているだろうから)...これはね、「お芝居」なんだよ。もし良かったら、私達がやることに付き合って、おばあちゃんは"赤ちゃんのふり"をしてくれないかな?そうしたらきっと上手く行くから。」
その代わり、あなたの本当の「心」の在り処は、この私がちゃんと預かるから―。
祖母は涙を浮かべたままちょっと笑って、「そうかい。」と答えました。
...本当は、「私が一緒に死んであげるよ。」と、そう伝えたかった。実際に言ったと思う。
でも私達は二人とも、その時、死なずに共に生きることを選んだ。
それは或いは、痴呆の進んだ祖母と、将来を見失いかけた大学四年生の私との、か細い、けれど大事な、孤独な人間同士としての「縁」の結び直された日だったかも知れません。
その内緒の「契約」以降、祖母はたいそう素直になって、何もわからない子供がされるままになるように、風呂も、散歩も、オムツ替えも、にこにこと受けるようになりました。協力的と言っても良い態度でした。それを見て母や祖父もだいぶ接し方が柔らかく変わりました。
時々、私達はそっと目配せをして、どの時点まで覚えていたかは不明ですが、祖母は私にしかわからない笑顔を返してくれることもありました。...もっとも私のことは、ずっと昔に肺病で亡くなった妹か誰かだと思っていたようですが。(私の知らない名前で何度も呼ばれたのですが、どうも定かでない...)
それは祖母が入院して、もう意識が戻らなくなる、本当に死の直前まで続きました。
まだ私と祖母の間で意思の疎通が出来た最後の時。
あれは病院に入る前の晩でしたが...その夜、布団の中の顔を覗き込んだ私に向かって、祖母は、何一つ意味の通らない言葉(?)を、しかし、とても親しげな口調で、ずっと、ずっと話し続けていました。
電気を消された部屋の暗がりの中で、こちらを見上げる祖母のつぶらな黒い瞳が、まるで満天の星空を抱いたようにきらきらしていて...何だかすごく楽しそうに、まるで本当の自分の弟妹か、さもなければ、幼い頃の一番仲が良かった友達にでも話しかけるみたいに...。
私はただ理解できないそれに、いちいち「うん、うん。」と相槌を打っていたのでした。
それは、永遠に続くかのような優しい夜だった―。
私達は人間として、「自分の時間=人生」というものを割と必死に生きているので。
時々、別の誰かにも、自分がそうしているのとそっくり同じように、「生きてきた時間=人生」というものが存在するのだということを、忘れてしまったり、気づかなかったりするものです。
特に、自分ともの凄く、容姿というか、在り方が違う相手(人種的特徴、年代、性別とか...)ほど想像が働き辛いのか、その傾向が多いように感じます。
しかし...昔の人は上手いこと言いますね、「一寸の虫にも五分の魂」というくらいに、目の前のどんな相手にも、その人なりに生きてきた「人生」というものがあり、抱えている「心」だってある。外からは簡単に見えないというだけで、ちゃんと、あるのです。
その、見えない「心」にほんのちょっぴり触れられた(と思える)瞬間が、あるかどうか。
...例えきちんとした「1」じゃなくて、ほんの「0.5」以下の関わりでもいい。
それを「縁」って言うんじゃないのかな?
だから、何十年も同じ家の中に住んでいたって「無縁」は全然ありうるし、たまたま知りあった名前も知らない赤の他人にすごく「縁」を感じられることだってある。そんなものだろう。
とりわけ長びく不況の今、余裕の無くなった社会では「泥沼の世代間闘争」とも言うべき、お互いを抽象化した「老人vs若者」みたいないがみ合いの構図さえ見えるわけですが。。
(その手の「反目」は老若だけじゃなく、男女とか、正規非正規とか...まぁ色々とね...)
そういう沢山の哀しい「無縁」を。
ささくれだった「心」とか、冷え切った「関係性」とかを、少しずつでも乗り越えて、困難な状況を変えて行ける「物語」を、いつか、皆と語れるようになりたいなと私は思うのですよ。
祖母のあの最後の、澄んだ星空のような瞳を思い出す度に...そう、強く願うのです。
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