映画「ジョーカー」の時代設定をリアルに生きた世代が感じたこと
唐突ですが、2012年の朝日新聞の社説、「社説:成人の日に――尾崎豊を知っているか」にあるように、「自己中心的なだけじゃないか」「何が不満かわからない」と、批判的な意見(内容としては犯罪ではないか?という指摘)が増えていたというのがおぼろげながら記憶の片隅にありました。
アメリカ、日本などでの報道が、宣伝として盛り上げるためのネタなのかわたしに判断がつきませんでしたが、自分よりも若い世代の人たちが映画「ジョーカー」に対して好意的なレビューを公開しているのを目にして、自分の目でも確かめておこうと思い映画館に足を運びました。
冒頭に出てくる映画会社のロゴを見た瞬間、1965年生まれの自分は、1972年~1984年頃は映画や音楽など様々な面で大きな影響を直接受けた時期でもあり、いろいろな思いが去来しました。
この時代に不遇な境遇から生まれてきたものといえば、自分にとってはパンクロックの存在。
詳しくはwikiを見て貰うのがよいと思いますが、前述した少し前の世代では「セックス・ドラッグ・ロックンロール」だったところに、セックスピストルズは「俺は反キリスト者でアナーキスト」というメッセージを訴え、当時の大人に嫌悪されました。
その雰囲気、この短いビデオクリップからも「ジョーカー」と共通する世界観を感じていただけるかと思います。
冒頭、尾崎の歌詞が内容としては犯罪ではないか?という指摘をされているということを紹介しましたが、「ジョーカー」が描く70年代の中頃の日本では、三菱重工爆破事件(1974)であったり、有名な浅間山荘事件も1972年の出来事で、これらのニュースが報じられていた様子はいまでも記憶に残っています。
ここに至る流れとして、全共闘 日大闘争 東大闘争や、新宿騒乱 が1968年にありますが、3歳当時の自分としては体験と呼べるものは存在しません。
60年代、70年代当時のこういった社会の動きが現在にどのような影響を与えているのかを回想しつつ、、最後にこんなエピソードを紹介しておきたいと思います。
1969年5月13日。東京大学駒場キャンパス900番教室で行なわれた、東大全共闘の討論会に単身乗り込んだ三島由紀夫の発言
私が行動を起こすときは、結局諸君と同じ非合法でやるほかないのだ。
振り返ってみると、自分の世代では少なくとも、テレビや映像作品などで描かれる社会問題のリアル感が現在よりもあったような気がします。
言うならば、思想が右だろうが、左だろうが、(現代比較において)許容される尺度を超えた活動が言い過ぎかもしれませんが、至るところにあった時代とも言えるかと。
そういう意味で、現代社会にはインターネットという仮想世界が存在し、リアルに不条理が表出することが昔と比較して減っているのかもしれません。
一般庶民として暮らす人たちの生活への鬱積が、昔と現在でどのように違うのかを比較する手段を私は持ちませんが、ジョーカーの主人公への理解や、作品が描く不条理に賛同する若い世代の存在と、尾崎の歌詞を「自己中心的なだけじゃないか」「何が不満かわからない」と批判する人たちはまったく別なのか、はたまた時代の流れでそこに変化が起きつつあるのかが気になるところです。