勘違いであって欲しい共同親権問題
共同親権に関する記事を見かける機会が増えています。
当ブログが転載されているBLOGOSで見かける共同親権についての記事では、ぱっと見ご自身が離婚家庭の出身の方、DV被害を実体験としてお持ちの方はいらっしゃらないようにお見受けしました。
このネタを書くのは母親が亡くなってからと考えていたのですが...当事者自らが書いている情報も必要だろうと思い、自分の考えを書いてみます。
わたしは自身の経験から、共同親権は採用してほしくないと考えています。制度の改定が行われるのか、特に調べていないので分かりませんが、自分はこんな実体験を持っています。
わたしの家庭では、父親から母親への日常的暴力がありました。
わたしが父親の暴力を認識したのは保育園に入園した頃だったように記憶しています。
母親はその暴力で鼓膜が破れるなどの身体的なダメージを被っていましたし、真夜中に家具を屋外に放り出すなど(母親の嫁入り道具)など、小柄な母親とまだ小さかった自分にとっては手のつけられない状態でした。
これ以上の詳述は避けますが、わたしが小学校3年生のとき母親は離婚を決意しました。
父親が国鉄職員、母親は小学校の養護教諭という共働きだったので、親権は母親が持つことになりました。
1975年当時はまだ離婚が現在ほど一般化していない時代でしたので、母親としては世間体もあり離婚は避けたいと考えていたはずです。
ただ、その想いとは裏腹に振るわれる暴力に対して身の危険を感じていたことも事実だろうと想います。
その父親から逃れて親戚の家に身を寄せながら、小学校を転校し、名字を変えての生活をしたことは今でも忘れることが出来ません。
そこから2年して、なぜか母親は再婚を決断します。
母としては、やはり両親が揃っている家庭を望んだのだろうと思います。
当時わたしは、父親の暴力が再発するだろうと明確に反対をしました。
そして案の定、数年が経過して2回目の離婚をするに至りました。(暴力の再発)
このように実体験を書いてはみたものの、なんでDVする人間と再婚するんだ?とか、当事者ではない方には理解できない事ばかりかと思います。(子供の立場であっても親の判断を理解できませんでしたから)
2回目の離婚から、父親の葬儀に参列するまで数十年の期間がありました。
それまでに父親と面会したことが1回あったように記憶していますが、それ以降顔を見たのは葬儀のタイミングとなりました。
自分があの当時に戻り、共同親権だから父親と定期的に面会する必要があると言われたら、それは断固として受け入れたくないです。
それが法律だからと強制されるのであれば、どういう行動をしただろうか?と
自分のかなり内面を晒すエントリを書いていますが、わたしが懸念しているようなケースに対して、現在の制度を改定する議論で子供が拒否できるなら、わたしの調査不足ということで、わたしが恥をかけば済む話。
これまでブログで何回も引用しているドネラ・メドウズの「世界はシステムで動く」でこんな指摘があります。
「他人の中絶を阻もうとする人たちは、その結果生まれてくる子供を自分で育てようとしない限り、内在的な責任を果たしていない」
今回の共同親権の問題においても、その後懸念される問題について、推進派の人たちは内在的な責任をどう考えているのかが気になるところ。
そして、政策議論の先にある実際の運用段階を考えると、以下のような課題もあることを指摘しておきたいです。
「システムの直し方を理解することと、実際に取りかかってシステムを直すことは、まったくの別物だ」
繰り返しとなりますが、わたしの今日の指摘は全然的外れで、最低限、子供に選択権が与えられる前提での共同親権議論であることを祈るばかりです。