人生100年時代に見ておくべき映画『92歳のパリジェンヌ』
ビスマルクの言葉とされている「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」を思い出すたびにモヤモヤするものがあります。
ここ最近急に進んだ老眼、加齢性の難聴、耳鳴りなど自分自身の体調のことやら、家族の介護問題から、子供が独立した後に夫婦2人で生活を続けることなどなど、わたしにとっては経験から学ぶことばかりです。
LIFE SHIFTが出版されたここ1年くらいでしょうか、100年時代について多くの人が考え始めたのは。わたしの父親の頃は55歳定年の制度だったのが65歳定年に制度変更され、100年時代における経済的な破たんをしないための高齢であっても働く前提で様々な意見がネットにあふれています。
確かにアナログからデジタルへの変化の過程で、様々な機器が小型・軽量化され、PCやスマホとインターネットを利用することで肉体的な負荷が少ない、高齢者であっても収益を生み出すことが可能な基盤は提供されているのは事実だと思います。
この進歩について否定はしませんが、たとえそのような意思はあったとしても、自分の肉体がついていけない、能力がついていけないという場合はどうなるのかの議論はまだあまりされていないように感じます。
プラトン『パイドン』を読んだ方なら「肉体は魂の牢獄である」をご存じだと思います。
偶然エンジニアとして優秀な才能をもって生まれた人にとって現代は素晴らしい時代ですが、ビジネスにつながりにくい才能を持って生れて来たた人にとっては、望んで生まれて来たのではないという観点で、多くの人にとってやはり肉体は魂の牢獄であると言えないでしょうか。
また、ここ最近の100年時代だから当然長期に働くことになるよね的な議論において、そもそも私たちの肉体を働ける状態に維持すること、経済的な価値を生み出す能力を維持・開発していくことを自分の意志で完全にコントロールできない、という観点にも注意を払う必要がるのではと感じます。
自分の意志としては、働きたいし、貢献する意欲もあるが、肉体がついていけない状態になったら、自分はどうなるのか、、、、
はたまた、そのような意思を持続出来ない状態というのは、自分はどのような意識でこの世に存在することになるのか、、、、
こういうことを思考しながら「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の言葉が頭に浮かぶたびに自分はモヤモヤが蓄積していきます。
こういうタイミングで偶然、Amazonビデオで『92歳のパリジェンヌ』という映画を見ました。
リオネル・ジョスパン元フランス首相の母の尊厳死を、娘で作家のノエル・シャトレが描いた小説『最期の教え』を原案とした映画で、尊厳死について考えさせられることは勿論なのですが、意志はあっても肉体がついていかない人間の辛さ、まさに「肉体は魂の牢獄である」という状態について考えさせられるものがあります。
尊厳死については今後様々な議論が行われると思いますが、自分は長寿が単純に良いという考えには賛同できません。
インドではある時期になると、地位があり資力のある親は、子供に譲り、自分は引退して森の中に住んだり、遍歴の生活を送るような習わしがあったようで、中村元(著)『原始仏典』によると、社会学者のマックウェーバーは「これは西洋にはみられない風習である。しいていえ類例を求めるならば、日本のINKYO(隠居)がこれに当たる」とドイツ語の書物の中にローマ字で書いて紹介しているとしています。
IT化した社会で老人であっても働けるのかもしれませんが、結局それは若い人たちの出番を奪っているようにも感じます。
現実問題として70歳、80歳で労働から対価を得て社会生活を維持しなければいけない時代に突入するのは不可避なのかもしれません。
100年時代においての働くことを前提とした人生戦略も大切だとは思うのですが、根本的なところとしての「肉体は魂の牢獄である」に向き合うことの難しさを自分は考えるばかりです。