最も幸運な団塊の世代の老後問題から考える、平等の概念の課題
お年寄りを大切にとか、親切にしてあげるというのは道徳的なところとして多くの人が合意できる内容かと思います。
ただし、何でも面倒見てあげれば良いのかというと、自分でやれることを奪われてしまうと老化が進む側面もあり、そのバランスが難しいところもあるようです。
そして最近では、高齢者の暴力犯罪が激増していることもあり、お年寄りというカテゴリの認識を改める必要が出て来ているのかもしれません。
舞田敏彦さんの「最も幸運なのは団塊世代!? 最も苦労したのは...?」という記事に掲載されている、ジェネレーショングラムを見ると一口に「お年寄り」といっても、昭和25年、35年、48年生まれでは、経験してきた社会環境にどれだけの差があるのかを知ることができとても興味深いものがあります。
これを見ると、やはり戦前生まれと戦後生まれの差は歴然としていることが分かります。
著者の舞田さんいわく、
あと一つ、黄色の1948年生まれ世代について、見ておきましょう。戦後初期のベビーブーム期に生まれた団塊の世代です。われわれの親(子にすれば祖父母)の世代に近いかと思います。
乳幼児期は戦後動乱の大変な時期でしたが、小学校に上がるころから成長の時代の兆しが見え始めます。8歳になった1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と言われ、高度経済成長の時代に突入。行け行けムードの中で、児童期・思春期・青年期を過ごしました。自分自身の成長と社会の成長がピッタリ重なった、幸運な世代です。
しかし若気に対する追い風が強過ぎたのか、ハイティーンのころは非行をしでかし、改造バイクで走り回り(カミナリ族)、大学に入ったら学生運動で大暴れするなど、色々やってくれました。最近、高齢者の暴力犯罪が激増しているのですが(暴走老人)、いみじくもこの世代です。定年退職したことで、若きころの血気が再燃しているのでしょうか...。
自分の行動がその後の人生に影響を与えるという教訓を学ぶうえで、アリとキリギリスの童話を聞かされた経験をお持ちの方は多いかと思います。また、因果応報という言葉も多くの方がご存じかと。
老後の貧困問題も最近大きく取り上げられることが増えており、ここに対して政府などへの施策を求める声は今後どんどん大きくなることが予想されます。
ただ、この表を見てもらってもわかるように、戦後の社会の中で稼ぐ機会や貯蓄をする機会にも恵まれたという点もふくめ、団塊の世代は現在生きている日本の世代で一番恵まれた世代でもあるわけで、彼らの高齢化を「お年寄り=弱者」という一側面から判断してよいのか、すごいモヤモヤするものを感じます。
再チャレンジ可能な社会の必要性は認識しつつも、どんなに無茶、無軌道なことをしていても、最終的に制度が生活を保障してくれるということになると、それはそれで問題を抱えることになりはしないでしょうか。
こういう事を言うと、自分が高齢化したときに困るだろうという考え方を持ち出す人や、自分自身もそういう思考を行って堂々巡りをしてしまうことがあります。
老化は等しく訪れますが、現在の日本の年代構成において戦前生まれと団塊の世代、それ以降をすべて平等に扱うで良いのか、ハイエクが「市場・知識・自由」で紹介しているアクトン卿の
「フランス革命を自由にとってかくも災害たらしめた最も深い原因は、その平等論であった」
この言葉に触れる機会が最近あったこともあり、ふと考えてしまいました。
今日触れた老後の貧困問題の他、ワークライフバランスという言葉も2015年は語られる機会があったように思います。その実現に向けて様々な法制度や規制が設けられることも大事だとは思うのですが、政治に頼りすぎることのマイナスはないのか...と
「われわれをとりまくすべての事物が小さくなっていって、ついにはわれわれの関心事がわれわれの知性の容積にまで縮まるであろうと確信させられる」
エドマンド・バークの言葉が染みる今日この頃です。
P.S
ちなみに、1948年生まれの芸能人・有名人の誕生日はこちらでかなり思想的にも左右に強力な方々が揃っており、音楽的にはフォークやらロック黄金期の方々。
そして、ここから一世代新しくなるとパンクロックをムーブメントにした世代が登場してくるわけですが、パンクが生まれたイギリスの社会背景を考えると、これらの年代の人が老人になってどういう社会性を持っているのか、それはそれで興味が沸いてきます。(セックス・ピストルズ仕掛け人のマルコム・マクラーレンは1946年生まれで、もろ団塊の世代でありますが...)