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麻生氏の「真意」をレトリカルシンキングの観点から考えてみる

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マーケティングについて体系的に学びたいと思った入った大学ですが、当然ながらそれ以外にも科目はいろいろあり、基本的なところでは大学での学び方に始まり、問題解決のための論理的思考であったり、情報解釈力を鍛えるという教科もあります。

この「情報解釈力を鍛える」という科目で学んでいることは、最近ですと細谷さんの著書「会社の老化は止められない」について書いたエントリの中でも利用させてもらっており、いろいろ実用面でも役に立っています。

先月末に、麻生副総理が憲法改正でナチス引き合いを出したということで、マスコミなどから攻撃をされていますが、こちらの報道を「情報解釈力を鍛える」で学んだ知識を利用して見ていくと、まず新聞の情報は「編集」されているという前提で見ていくことになり、ここでは紙面の空間を構成することを「編集」と考えたいと思います。

これを前提に、今回の麻生氏の発言から新聞各社が編集作業を通じて、どのように「価値観」が紙面に含まれてくるのかを見てみます。

現在映像素材などは無いようなので、発言全体を知るのはこのテキスト情報だけのようですが、この現場にいたと思われる新聞・通信社は以下のような報道を展開しています。

 その上で、ドイツでかつて、最も民主的と言われたワイマール憲法下でヒトラー政権が誕生したことを挙げ、「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。(国民が)騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。

 麻生太郎副総理兼財務相は29日夜、都内で講演し、憲法改正をめぐり戦前ドイツのナチス政権時代に言及する中で「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた。
 「けん騒の中で決めないでほしい」とし、憲法改正は静かな環境の中で議論すべきだと強調する文脈の中で発言したが、ナチス政権を引き合いに出す表現は議論を呼ぶ可能性もある。

新聞に限らず報道機関は「客観報道に努めている」という主張をしますが、これは客観報道に”勤めている”のであって、客観報道をしている訳ではないという事を理解する必要があります。

記事化にあたっては以下のようなステップを踏みつつ、報道各社の「価値観」が紙面となります。

  1. 何を取り上げるか
  2. どの欄で取り上げるか
  3. どのくらいの分量の記事にするか
  4. 内容をどう取り上げるか
  5. どのような表現を使うか

これを見るまでもなく、記事の端々に価値観はにじみ出る訳で、新聞社の価値観と無縁のものは存在しないと言えるでしょう。

「情報解釈力を鍛える」では新聞の情報を読むためには「編集読み」をすることが効果的としておりそのポイントは以下の通り。

  1. 同様の記事を比較しながら読む
  2. 異なる記事との関係性を読む
  3. 関連記事から「広がり」「奥行き」「経緯」を読む

そして、新聞を読む際のポイントを集約すると「一に多を見る、多に一を見る」になるとしています。

確かに、今回の報道についても、全文と各社の報道を比較して読んでいくと各社の価値観の違いを読み取ることが可能になると思います。

今回の件については、新聞の編集には「唯一の正解」は無いと言えるでしょうが、外国団体からの批判まで受ける事態を起した見出しの付け方や内容の纏め方については様々な見方が出来ると考えます。

一例といて橋下徹大阪市長が、「行きすぎたブラックジョークというところもあるが、ナチスドイツを正当化したような趣旨では全くない」との見解を示したというところから、これに「ブラックジョークとして扱ってはならない事柄がある」とユダヤ人団体が批判を示すなど、そもそもの趣旨とは全く違うところで世界的なレベルで批判されている事態を引き起こしていることについて、そのあり方は問われる場面があろうかと思います。

では今回の麻生氏の発言は問題無かったのかと考えると、政権政党のNo2という立場であればもっと言葉の使い方に慎重であるべきという指摘は当然出てくるものかと思います。

山本七平は『「空気」の研究』の中で、日本の「空気」に支配されている例を説明・解説する中で、こんな前振りをしています。

だが、ここでは、現在において、まず明確に残っている最高の例と思われる西南戦争の例をとろう。これならば、すでに歴史上の事件であるし、戦ったのは同じ日本人同士だし、従って外向的配慮から虚報を「事実」だろ強弁する必要もないし、事実としなければ反省が足らんろ言われることもあるまい。

中略

共に日本人だから、どこからも文句は出まい。歴史上の事件で国内事件の場合は、こういう点で、いわば「無害化」されているので、非常に扱いやすい。

この指摘はナチスという例を使ったのが適切だったかという観点でも参考にすべき事柄かと思います。

麻生氏はこれまでも発言を問題視される事がありましたが、それをただ配慮が足りないだけというのではなく、もう少し踏み込んだところで考えて見ようとした場合、レトリカルシンキングの考え方を適用してみると、価値観共感性と現実感喚起性の両面で改善の余地がありそうです。

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麻生氏は政治家ですから、その構想で示された価値について共感できるか否か、そこで示されている言説、モノの見方がリアリティを喚起できるかどうかで、支持者がついていくの分かれ道となるはずです。

価値観共感性は望ましさを、現実感喚起性は実行あるいは実行可能性をそれぞれ判断することになる訳ですから、政権政党のNo2の立場としてスピーチ、談話、その他自説を披露される場合にはやはり注意という事だけでなく、このような側面からの話しの組み立てをする事が大事なのではないでしょうか

「情報解釈力を鍛える」は産能大のテキストですが、この著者である妹尾 堅一郎氏は、『考える力をつけるための「読む」技術―情報の解読と解釈』のほうでこんな指摘をしています。

価値観共感性は望ましさを、現実感喚起性は実行あるいは実行可能性を、それぞれ判断することになり、その結果、両者が揃った場合には、その言説を受け入れるということになる。

いくら価値観共感性があったとしても、まるで現実感喚起性がないようなものは「夢物語」

いくら現実感喚起性があったとしても、価値観共感性がなければ、それは「イヤな話し」

価値観共感性も現実感喚起性もなければ「お話にならない」

そういう意味で、今回の例え話しは「お話にならない」結末になってしまったのかもしれません。

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