オルタナティブ・ブログ > 誰がためにITはある? >

流行に流されやすいITやビジネスの本質を考えるブログ

コピペ世代と失われつつある恥の文化

»

以前入試問題のカンニング問題が世間を賑わせました。カンニングという不正と、学校がした対応が本当に合っているかという議論はありますが、今回はカンニングが行われた環境と意識を考えてみたいと思います。

目標達成の方法として、スタートとゴールそしてゴールを明確にし、ゴールまでたどり着くまでの手段を明確にするというものがあります。 今回のカンニングでいうと、スタートは受験者の現状の学力、ゴールは志望校合格というものになります。そして、通常そこにたどり着く手段として、勉強をするという方法が考えられます。 私も後輩に仕事を教えるときに、スタートとゴールを設定した上で、ゴールにたどり着く方法は何でもよい。最短ででたどり着く方法を考える。と話しています。

ただ、この説明には一点端折っているところがあります。それは、ルールをはずさないこと。当たり前のことですが、ゴールに進む手段として不正をしたら話になりません。それぐらいは理解していることを前提にしていますので、不正をしないようにとはわざわざ話しません。

しかし、最近の若い世代は少し変わってきています。それがコピペ文化です。ネットがなかった時代は、ゴールに進む方法は、いろいろあるにせよ何かしら自分で考えることが必ず含まれていました。しかし、ネットが普及してからコピペ(または他人のファイルのコピー)という手段がとれるようになり、考えなくてもゴールにたどり着けるようになりました。 コピペが全くだめとはいうつもりはありませんが、以前ブログでも書いているとおり、コピペはあくまで他人の知恵なので、本人の考えは含まれていません。 コピペが普及しすぎると、人は考えなくなる。考えても、いかにゴールに楽にたどり着けるかを考えてしまう。

このコピペ思考が、悪化したものが今回のカンニングではないかと考えます。 ルースベネディクト著「菊と刀」には、日本人は恥の文化を持っていると記されています。この書籍はアメリカ人の著者が戦後における日本人の文化研究として記されている書籍です。そのため、古い書籍とはいっても、数十年前レベルのことになります。それよりも前の武士の時代にさかのぼると、日本人は他人から辱めを受けたことだけで、決闘になったり、切腹になったりと命をかけてその汚名をそそぎます。それだけ、日本人は自分の生き方に誇りを持ち、そのための自己研鑽を怠らない文化を持っています。 それが、題名の一つとなっている「刀」で、日本人がもつ刀は抜くことは少なくとも、刀が曇らぬよう磨き続けることが求められる。刀を曇らせたらそれはもつ者の恥である。それを象徴するように、自己研鑽を怠らない文化を持っているとかかれています。(アメリカ人からそう評価されています)

現在の世の中で決闘や切腹などはありません。また、人に辱めを受けるということもそんなにありませんが、少なくともルールに従いましょう、努力しましょう。ということは様々なところで教わりました。そして、小学校でもルールを破った生徒は、みんなの前で先生に怒られたり、先生の教壇の横に机をおかれ、みんなから辱めを受けることとなっていました。

現在はどうでしょうか。ゴールまで最短でたどり着く方法ばかりが重視され、その過程を考える重要性や、ルールを守る大切さが失われているように思えてしまいます。 ネットが普及し便利になることは喜ばしいことです。私もその恩恵を受けている一人なので、ネットを否定するつもりはさらさらありません。しかし、便利であることが当たり前になることで、古来日本人が持っていた恥の文化が失われてしまうのは非常に悲しい現実であると感じます。

Comment(0)