被害者や傍観者ではなく、当事者としての意識を持つこと
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『「騙された」とか歌って喜んでる斉藤和義と信者はこれ読めよマジで』というブログ記事で、映画監督の伊丹万作さんが、太平洋戦争終戦直後の昭和21年に雑誌で発表した「戦争責任者の問題」という文章が紹介されています。ネット上で話題になっているので、すでに読まれた方もいると思いますが、ブログのタイトルをどう思うかは別として、今現在、多くの人に読まれるべき内容だと思っています。一部を下に引用しておきますが、まだ読んでない方はぜひ全文を読んでみてください。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
私自身は、福島原発事故に関しては人災だと思っていますが、特定の人や団体だけに責任を押しつけられるものではないと思います。今、重要なことは、批判や責任追及だけではなく、未来への希望について考えることであり、今後同様の悲劇を起こさないためにはどうしたらいいのかを考え、それを考えるために今回の事故について徹底的に検証し、自分ができる範囲でやるべきことがわかればすぐに実行していくことではないでしょうか。例えば、政治家にリーダーシップのある人がいないと批判するなら、リーダーシップのある人を政治家にするにはどうしたらいいかを考え、そのための方法を考えて、その案をまずはブログなどに書いてみるということでもいいと思います。プランや意見の表明も一つの行動だと思うので。その際に大事なのは、私たちみんなが、被害者や傍観者ではなく、当事者としての意識を持つことだと思います。
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