釜石と山田町に行きました
〈「復旧・復興支援制度データベース」サービスが始まりました〉でご紹介した件に関連する仕事で、岩手県に行ってきました。今回の出張の目的は、岩手県山田町で「復旧・復興支援制度データベース」の使い方を説明して活用を促進するとともに、今後の改良の課題をヒアリングすることです。
新幹線や東北道が通っている盛岡市から沿岸の山田町まで約120Kmあります。当日朝から出かけるには遠く、山田町内に宿泊することは難しい状況です。少し遠回りになりますが、釜石で前泊することにしました。
新幹線で盛岡まで行って、駅で岩手県在住のチームメンバーと合流しました。そこから車に乗って、花巻で高速を下りると、いよいよ山越えです。遠野から太平洋側までは山が連なる険しい地形になります。今はここを長大なトンネルで簡単に抜けて行けるようになっていますが、トンネルができる前の山越えの厳しさを想像しました。
天気は快晴で心配された雪もなく、順調に走って夕方に釜石に到着しました。
人口約4万人の釜石市は、東日本大震災の津波で1,048人の死者・行方不明者を出しました。
ギネスブックに載った世界最大水深の防波堤である釜石港湾口防波堤がありましたが、 津波は防波堤を押し壊して流れ込み、JR釜石駅東側のマチと呼ばれる繁華街を飲み込んで、線路に並行する川を遡りました。
釜石駅南側の線路をくぐってマチへ続く県道は、津波直後に警察によって通行止めになりました。線路の西側にいた人達は、津波があったときいても何が起きているのか状況を理解できなかったそうです。津波直後の状況については、石井光太氏が地元の人にインタビューした内容をまとめた書籍「遺体」が詳しいです。この本はオルタナブロガーの田中さんもお勧めの本です。
少しして、避難者の一人がこんな情報をもたらした。
「国道が通行止めになっているのは、大津波が発生したせいだ。ものすごい高さの波があっという間にマチを呑み込んじまったんだ。家も車も何もかも流されっちまった。もうマチは終わりだ。!」
我々が宿泊したホテルサンルート釜石は、繁華街の中心にあります。上のYouTubeの動画で3:00頃の画面左端に見える白い大きな建物です。手前に写っているのが県道です。8:00頃に津波が流れ込んできます。
一階部分に津波を受けたホテルは、ようやく復旧したばかりです。ホテルのまわりは応急処置でベニヤ板やブルーシートで入口をふさいだ商店やビルが、まだそのまま残っています。少し前にやっと信号が復旧したとききました。この近くで72名の方が亡くなりました。暗い通りと営業再開したコンビニのまぶしいくらいの明るさの対比が、妙に印象に残りました。
翌日は早朝にホテルを出て、大槌町を経て山田町に向かいました。大槌町は津波の後で大火事になったところです。今は瓦礫の片付けが一段落して、多くの場所は更地になっています。そこに雪が積もって、ぱっと見ただけでは新しい造成地のようです。ただ、よく見ると建物の基礎のコンクリートが残っていて、津波の被害を受けたことがわかります。
山田町役場は海から少し引っ込んだところにあります。津波はここでも防波堤を破壊して突入してきました。少しだけ高い場所にあった役場は無事でしたが、その手前の住宅は津波を受けました。Googleストリートビューで180度振り返った方向が海です。
今回は役場の隣の会場で3回の説明会を開催して、業務完了です。
帰りはそのまま北へ進んで、宮古経由で盛岡に戻りました。全行程270Kmの大移動でした。盛岡で地元の日本酒などを買い求めて東京に帰ってきました。
今回見た範囲では、瓦礫は集積場所に移動し終わっているようでした。山田町では名物のかき小屋が営業していて、前日までに予約しておけば焼きたてのかきを食べることができます。もともと山田町は鯨ウォッチングができる観光の町なのだそうです。しかし市街地の復旧・復興は始まったばかりです。これから先の道のりの長さが思われます。
来週は福島県に行く予定です。