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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

「学ぶ」って一生涯続く行為なのに、なぜ「大人の学び」は特別視されるのだろう?

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「大人の学び」って、このブログタイトルも標ぼうしているのだけれど、ふと、あれ?おかしくない?って思い始めたので、自問自答しつつ、書いてみる。

大人になってからもずーっと勉強しているし、ここ5年10年くらいは、なんだか社会の変化が加速しているので、常に、新しい情報とか知見とか本とか論文とか得て、読んでいる感じになっていて、それでも、世界の全てが把握できるわけじゃなくて、スペシャリストの道を究めるのも難しいものだなと実感している。

実際、学生時代の勉強は、ある意味で、科目が決まっていたし、ある程度の学習範囲も決まっていた。テスト範囲みたいなのがそれだ。

しかし、働いていると、テスト範囲が不明確になるし、いや、テストみたいなものがあるわけじゃないし、どこからどんな球が飛んでくるかわからないので、あれこれアンテナを立て、あるいは、先読み力を発揮して、先手も売って、様々に勉強していなければ追いつかない。

それなのに!である。

「勉強していると、"意識高いね"と揶揄される」

なんて話は今でも聴くし、

「学校に通っていることは、同僚にはナイショにしている」

という話ももちろん聴く。

「大人になっても学ぶの?」と思っている人がある程度は存在するってことだろう。

学ぶとは学校で行うことだけじゃないし、人生は、学ぶ期間(20歳くらいまで)の5倍の100年もあって、80年間学ばずに済むなんてことはなくて、だから、何歳であっても、学ぶし、知識やスキルをあげていくし、それによって生きやすくなっていくはずなのだから、
本来なら、わざわざ「大人の学び」とか「大人の学び直し」などと「大人の」をつけること自体がおかしいのかもしれない。

私たちが「大人になっても学ぶ」というように「なっても」と言うのは、どこかで、そう考えるように仕向けられたのだろうか?

「勉強は学生の本分」というのもそれなんだろうか?

幼い頃より、「勉強は一生涯」「マナビというのは、年齢を問わない」ということをあちこちで言われ、聞かされてきたら、「大人に"なっても"学ぶ」という言葉遣いは出てこないような。

なぜ、私たちは、「大人になっても学ぶ」という表現を使うようになっているのだろう?

はて?


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