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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

越境学習者は迫害されるが、迫害にも意味がある。

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先日、CultibaseLabの勉強会で、石山先生の越境学習を学びました。

越境学習とは、「自分がホームと思うところ」と「アウェイと思うところ」を往還して学ぶこと、で、学習する内容そのものより、違和感を覚えたり、煩悶したりするプロセスに新たな視点や視座を得るという、そこが大事なんだという話をなさっていました(と理解しました)。

越境学習している人は、社内に戻る(ホームに戻る)と、「こういう考えがあるんだよ」「こういうことをやってみたいんだけど」と、アウェイで受けてきた刺激なり、学びなり、知見なりを披露するのだけれど、ずっとホームにいる人にとっては、「何、急に目覚めちゃってんの?」と言われたりして、迫害されることも多い、というのですね。

ああ、わかる、わかる。

で、迫害されると心折れそうになるんだけれど、「迫害される」ということ自体に意味があるんじゃないかと話されていました。

ずっとホームにいる人にとって、いったんアウェイにいって学習して戻ってきた人に対して、「違和感を覚える」から「迫害」をするわけで、「迫害された」、すなわち、「何か新しい一石を投じた」という小さな証になっているんじゃないか、というそんな話でした。

迫害されると悲しくなるし、心折れるし、また、元のやり方に戻そう、などとホームの文化、色に染まり続けるほうがラクなので、戻っていってしまうこともあるのだけれど、それでも、「迫害にも意味がある」と思え、折れない心を持っていると、どこかに小さな風穴があくかもしれない。そう信じられたら、越境学習者は、強い気持ちで、社外、異文化に目を向けることを辞めない、あきらめなずに済むのかもしれませんね。


石山先生は、ホームのことを、言葉が通じる、居心地がよい、いつもの場所、分かり合える仲間、といった表現をなさっていました(と記憶しています)が、アウェイは居心地が悪い、言葉も通じない、ソワソワする場所。

ソワソワする場所に身を置いて、自分の当たり前が他者・他社の当たり前じゃないって気づくだけでも意味はあるような。

そうそう、テレワークになって以来、朝ドラにハマりまくっているのですが、今朝(3/28月)、「カムカムエヴリバディ」で、"五十嵐"が、10年近く前に渡米して、アメリカで「殺陣ができる東洋人」として、異文化と闘いながらも、自分の居場所を見つけた、みたいな話をしていました。

日本にいて、京都太秦にいて、時代劇俳優にこだわっていたけど、世界はもっと広いんじゃないかと思い、渡米してみたら、当初思っていた俳優じゃないが、演劇に関わるポジションを得て、そこが自分の居場所になったと。

アウェイに出てみたら、ああ、こういう道があったのか、と気づいた話、なのかもしれませんね。
(と無理やりこじつけてみました)

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