「甲子園の砂」は「試合後に自分自身で集めたもの」だからこそ価値がある。
「齧られた金メダルの意味」についてブログに書いたら、Twitterで「甲子園の砂だって、自分で集めたものに意味がある」というコメントをいただきました。
ああ、そうそう。
私、1980年夏の甲子園大会、アルプススタンドで応援したんです。
都立の星と言われた都立国立高校3年の時、甲子園初出場となりまして。
なので、甲子園の砂を掬っている同級生をこの目で見た、、はずです。
あの圧倒的な甲子園の熱気と空気の中で自分の手を砂まみれにしながらかき集め、手のひらで掬い、袋に入れてバスに揺られて地元に帰り、「これが甲子園の砂だ。」と一生の宝物にする。
そういう「意味」が大事なんだと思います。
甲子園の砂はなぜなくならないか、というと、補充しているからなのだけれど、どこからどう補充されていようと、甲子園のグラウンドにしゃがみ込み、自分の手で持ち帰ったってところに価値がある。
そう考えると、やはり、齧られようが何しようが、授与式で受け取ったものこそに意味があり、価値がある。
今日、昼休みに散歩しながらラヂオを聴いていたら、伊集院光さんが、「選手自身の声はもうどっか行ってしまって、メダルは選手のものなのに、周囲の思惑に翻弄されているのが気になる」といった趣旨のことをおっしゃっていました。
そうそう、そういう違和感がとてもある。
だから、やはり、「悪気はなかった」と言っても、「悪いことをしてしまった」ことには変わらないのですよね。
海より深く反省してほしいな。市長。
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