「どうせシニアは」という呪いの言葉。
ずいぶん前のことだが、あるマネージャから、こんなことを言われた。
「ほら、50代後半になってくると、皆、失速するというか、残りの人生、ゆるゆるやっていく、というか、新しいことは学ばないし、一筋縄では動かないし、大企業なんか、朝から晩まで新聞読んで、ほんと何にもしない人、いっぱいいるじゃない。シニアに期待してもねぇ、しょうがないよね。」
ふむふむ。
まあ、そのシニアの気持ちもわからなくはない。50代になったらのんびりしようかなと思ったら、少子高齢化、定年延長、あれ、話違う?って戸惑う感じもある。
先日、インフルエンザの絶頂期のさなか、55歳になった。一人で闘病している中でとうとう「シニア」になってしまった。全く、なんて節目だ。
ま、それはそれとして、
「どうせ、シニアは変わらない」
「どうせ、シニアは働かない」
「どうせ、シニアは新しいことを覚えない」
「どうせ、シニアは厄介」
・・・「どうせシニア」というタイトルの歌が作れそうだぞ。みんなのうた、になったら・・・・、炎上しますね、はい。
「どうせ、シニアは」
と言われているシニアは、確かに厄介だし、若い人ほどの瞬発力もないし、物覚えが悪いかもしれないけれど、「どうせ」「どうせ」と言われるから、余計に「どうせシニア」になってしまうのではないかと思わなくもない。
冒頭の会話時、私も50代にはなっていたので、このマネージャに反論した。
「私も50代ですけれど、そうやって、どうせ、どうせ、どうせ、って言われるの、あまり気分よくないです。あれに挑戦してみよう、これをやってみたい、という気持ちもあるし、確かに体力は落ちているし、集中力もアレがナニしてますけれど、そうやってレッテル貼られるの、嬉しくないです。シニアとひとくくりにしてほしくないなぁ」
彼は、
「あ、確かに。そういうくくりでレッテル貼るから、余計、悪循環になることもあるかもですね」
とすぐ受け入れてくれた。
ピグマリオン効果という言葉があるけれど、
「どうせ、あの人ダメでしょう」と言われていたら、それが呪いのように作用して、「ダメになっていく」ってのは絶対にあるはず。
シニアだって、やりたいこともあるし、頑張りたい分野もあるし、もちろん、若者ほど瞬発力もなければ、素直でもないだろうけど、「どうせシニア」と言わないで欲しい、とも思うのである。
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この度、めでたくシニアに突入したので、いろんな本を読んでみている。シニア関連のキャリアや仕事本が続々出るということは、それだけみんなの、社会の課題なのだろう。