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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

説教でもアドバイスでもなく、ただ、「わかります」とだけ言ってほしいような状況ってのがたまにあるわけで。

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この手のことは、これまでに何度も書いてきているので、食傷気味かもしれないし、いや、過去のことは忘れたよ、って方もいらっしゃるかもしれないけれども、最近、ふたたび、強く思うことがあって、同じ話だけれど、書いてみようと思う。

気分がすぐれない(吐きそうとかおなか痛いとか身体的な原因ではなくて)とか、落ち込んでいるとか、あるいは、どうにも気持ちが低迷している、とか、はたまた、自身喪失とか、「頭悪いな、私」と自己嫌悪、とか、まあ、そういうネガティブな状況に陥っている、とする。

そんなことは、バイオリズムの流れの中のことなので、いつまでもその状態が続くことのほうが珍しく、何等かの理由でそこから抜け出し、また気持ちが上向きになったり、テンションあがってきたり、元気出たりするわけなのだけれど、ただ、底にいるとき(気分的な”底”ね)は、無駄なあがきとか、悶々悶々もんもんもんもん、もんもん、青春の門、中年の悶って感じで(ってどんな感じだ?)、そこから抜け出るきっかけがうまくつかめないこともある。

友達やら家族やら身近な相手や、逆にまったく親しくないというか、さほど親しくない誰か、あるいな、ほんとうに単なるソーシャル上のかかわりしかない、男性か女性かもわからない相手にそういう気分を吐露するという対処法をとることもある。

黙って悶々としていることももちろんあるし、一人で自己と対話して、あるいは、趣味の(笑!)写経に出かけて心の整理をつけることもある。

でも、話して、とりあえずの「放す」(解放)と、一時的な「カタルシス」を求めて・・・ということもある(だろう)。

解放とかカタルシスだけじゃなくて、実は、話していると、文字で表現していると、頭の中の(気分的には「心の中の」だけど)もやもやが言語化されるので、少しだけ、ほんの少しだけ客観視できてくることもある。

「ああ、私の落ち込み原因はここにあるんだな」
とか
「これは、変えられない要因」
「こっちは、変えられる要因」
とか
「前にも似たことあったな」
とか。

そこに、エリスの「ABC理論」なんか適用してみようと思ったり、モチベーション理論のあれこれを組み合わせてアカデミック(風)に解釈を試みようとしてみたりもする。

だから、相手(それはリアル知り合いでもそうでなくても)がどういう反応をしてくれるか、より、自分の内面を言語化することのほうが実は重要なのかもしれない。

「そうか、わしは、こんなことが誘因となり、これが落ち込みの根源で、ここはどーしようもないけど、こっちはなんとかなるんじゃないか」と整理がつくから。

とはいえ、とはいえ、だけれども、やはり。

誰かに気持ちを吐露したとき、どういう反応が来るか、ってのも少しは大事で。

こういう時の反応、いろいろあるんだなぁ。

●そーゆうときはこーすればいいんじゃないのぉ?(というアドバイス系)
●もっと前向きにいかなければダメだよー(という説教系)
●とにかく頑張れ!(という励まし系)


など。

でも、最も救われる、癒されると思うのは、

シンプルに

● わかります

だ。

あくまでも当方比。

「わかります」という言葉、とてもパワフルだ。


この間、ある人に「わかります」と言われた。(正確にいうと、文字で受け取った)

それだけでちょっと頭の上に乗っている重石が軽くなった気がした。


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誰かに相談されたり、人生?語られたりすると、つい「こうしたらどう?」「こういう風にしようよ!」と自分でも言いたくなっちゃう。

それは、相手を思ってのことなのだけれど、ただ「わかります」というのは、難しいもんだ。だって、話してくれているのに、「わかるよ」「わかります」とだけの反応でいいんだろうか、と思ってしまうから。

何か、価値あることを言わねば、男がすたる、女がすたる、などと腕まくりしたくなってしまう。

でも、実は、「わかる」という言葉だけでいいいのかもしれない。

本当は「わかってなく」ても、「わかる」という返事を相手が求めているとするならば。

ただ、相手が求めているものが「わかる」だ、ということが、なかなか「わからない」のだねぇ。(立松和平風)

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・・・・・と、いつもと違う論調、文体で書いてみました。 失礼しましたー♪

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