言葉のチカラ:言った方は覚えてなくて、言われた方は覚えている。
人の言葉というのは面白いもので、発言した側は案外覚えてなくて、言われた方がずーっと10年も20年も覚えているということはよくある。
「そんなこと、言ったかしら?」と思うようなセリフについて、「ながーく感謝してました」と退職する後輩に言われたこともある。もうずいぶん前のことだけれど、新人時代からなんとなく世話をやいていた後輩が転職するので私に手書きの手紙をくれた。その手紙には、数年間の感謝の辞と共に、具体的に私が彼女に話した言葉が綴ってあった。「へぇ、いいこと言うね、私」と驚くほどだった。「ほんとに、それ、私が言った?」と聴いても思い出せないような、私にとっては些細な言葉。相手にはその小さな言葉がずきゅんと響いたのだろう。
もちろん、「ネガティブ」な意味で記憶にとどまってしまうケースもある。「あの時言われたあれが、今でも悔しくて」というような例だ。これも、当人は全然覚えていなくて、言われた方だけいつまでもいつまでも心に棘が刺さったような気持ちでいるのだと思う。
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ネガティブな例はたくさん挙げても楽しくないので、今日は、ポジティブな例をいくつか紹介したい。
20年ほど前のことだ。中学時代の恩師(今でも年賀状のやり取りだけは続いている)から届いた年賀状。
添え書きにこうあった。
「私はいつでもタナジュンの応援団のつもりでいるからね」
(※中学時代、タナジュンと呼ばれていた。先生からも)
これってきっと、今先生は全く覚えていないと思う。でも、その時の私は人生でいくつかの困難を抱え、悶々としている時期を過ごしていたので、非常に心強い一言となった。
『15歳の時、たった1年間担任をしてくださっただけの先生が、いつまでも”応援団”と言ってくれる。私にも味方もいるし、見守ってくれている人もいるんだな』とその年賀状を何度も何度も読み返したものだ。
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7-8年ほど前の話。
ある企業とアライアンスを組みたいと先方との打ち合わせ、交渉、社内調整に奮闘していた。私自身、アライアンスを進めるのは2回目の経験だったが、慣れているということでもないので、何をどう交渉していけばよいのか、それなりに苦労をした。両社の利害は一致していたので、さささっと話が進むであろうと予測していたら、思った以上に時間がかかってしまった。(今となっては何に時間がかかっていたか、詳細は思い出せないが、苦労したことだけ非常に覚えている)
その時、先方の社長と別件でお食事する機会があった。彼は、アライアンスを進めている件についてご存じだったが、ご自分が関わっているわけではなかった。私が「思いのほか、あれこれに時間がかかってまして・・・」と漏らすと、フランスパンをちぎりながら、こうおっしゃった。
「淳子さんが想いを持って進めているんでしょ。きっとうまくいくから。ボクが口出すことじゃないから見守るだけだけどね」。
私はその一言で背中を押された気持ちになり、再度、社内の別の人間も巻き込んで、一気に契約まで持っていくことができた。
おそらく、この一言もまた社長はちっとも覚えていらっしゃらないだろうと思う。
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人は、誰かの言葉によって、傷つくこともあるけれど、励まされることもある。勇気がわくこともある、自信を取り戻すことも。
自分の言葉がだれかを傷つけることもあるけれど、誰かを励ますことも、誰かの勇気の素をプレゼントできることもある。自信を取り戻すきっかけが私の言葉だったということだってあるだろう。
傷つける心配、意図せず、誰かを不快にさせてしまう懸念。もちろんある。しかし、それでも、多くの言葉のプレゼントを受けていることを思い出してみると、自分だって誰かの力になれることも数多くあるだろう。
たくさんの失敗も重ねながらでなければ、言葉のチカラは身に付かない。失敗しないに越したことはないけれど、誰も傷つけることがないほうがよいに決まっているけれど、それでも、発信しなければ、上手に伝える術も得ることはできないだろう。
だから、こうして毎日のように何かを語りかける。ブログで。TwitterでFacebookで。社内であれば、メルマガで。そして、もちろん、直接の対話で。
私が多くの言葉の贈り物で勇気づけられているから、私も誰かのチカラになれますように、と、祈りながら。