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元・外資系ハードウェアメーカー・マーコム担当の、人生のお休み徒然日記。

常識・非常識の判断と、大人になってからの学び

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私の会社には、"月1回のおやつの日"があります。
月替わりで、有名なお菓子屋さんのお菓子とソフトドリンクが用意され、時間になると配布される部屋の前には大行列が出来る恒例行事です。
ちなみに、本日のおやつはプリン(とろけるプリンと懐かしい硬めのプリンから選択)でした。

行列は廊下をぐるりと廻り、いつも、デスクのあるオフィスエリアの扉の前まで伸びています。
時間に少し出遅れた私が、同じチームの同僚と並んでいたところ、オフィスエリアの扉が開いて、男性が一人出てきました。
すると、私達の前に並んでいたグループの男性の一人が、その男性と同じチームだったらしく、声をかけました。

「特別に、ショートカットで列に加わることを許す!」

その時、私達の後ろは既に行列が伸びており、30-40人ほどの人が並んでいました。
出てきた男性は苦笑いをして、声をかけた人達に手を振って、列の一番後ろに並びに行きました。
彼に声をかけた男性はそれを見て、
「なんだよ、チキンだなぁ」
と、グループの同僚と笑っていました。

プリンの数が足りなくなるわけではないし、そこまで切羽詰まって行列を作っている場面ではないのは確かです。
でも、みんな業務を中断して並んでいるし、横入りをされたら、関係のない人たちは気分が悪いはず。
同僚の誘いを断って列の後ろに並んだ男性は、常識的な人だな、と私は思いました。
内輪だけで盛り上がって、周りのことを考えない、この「チキンだなぁ」と言ったような人が、本当に最近増えていると思います。

また先日、こんなことがありました。
昔の同僚みんなで送ったお悔やみのお返しとして、私宛に大箱入りのお菓子が送られてきました。
お悔みに賛同した同僚で分配しようと、私は他の階にいる同僚の1人に、配分した残りを箱ごと持って行って貰いました。
その同僚は、箱が大きかったため蓋を閉めて、近くの空いたパーテーションに箱を置いておいたそうです。

ところが、いざ配ろうと箱を開けたところ、中身が殆ど残っていなかったと、慌てて私に連絡をしてきました。
箱には、お悔みのお返しであるしるしの「志」の熨斗紙が被せてあり、蓋が開いてお菓子がむき出しになっていたわけではありません。
常識的に考えれば、誰のものか分からないお菓子で「頂いたのでお裾分けです」と声をかけられたものでもないのに、箱を自ら開けてお菓子を取って食べるなんて、考えられないことです。
まして「志」の熨斗がかかっているのですから、お悔やみのお返しと分かるはず。
自分がお悔やみに賛同した覚えのないものなのに、そのお返しを黙って食べるなんて、非常識にもほどがあります。

ランチの時、チームの同僚にその話をしたところ、
「それは、お墓やお仏壇から、勝手にお供えを取って食べたことと一緒だよね」
本当にその通りです。
なんて罰あたりなことをしてくれたのだろう、と思います。

私がまだ高校生だった頃、学校帰りの電車待ちの時、列の前方に母の姿を見つけて、「お母さん」と声をかけたことがあります。
母は振り返って
「あら、お帰り。同じ電車だったの」
と返事をしましたが、そのまま母の隣に並んで話し始めようとした私に、
「並んでいる人たちがいるんだから、あなた一番後ろに並びなさい」
と、ややきつめの口調で言いました。

母に言われるまで、後ろの人のことに気付けなかったことと、高校生にもなって母に公の場で叱られたことが恥ずかしくて、列に並び直してからも顔が上げられなかったことを覚えています。
でも、あの時きちんと私を叱ってくれた母には、今では本当に感謝しています。
モラルを理解し、身につけなければならない時期に、母に身を持って教えてもらったこと、自分で気付けたことが、今の私の"モラルの基準"の礎となったと思います。

そういえば祖母は、お盆やお彼岸でお供えしたお菓子や果物を、仏様に断ってから頂くものだと教えてくれました。
幼稚園児くらいの子供の頃、いとこ達が集まると、いたずらしたり黙ってお供えを食べてしまうこともありましたが、必ずお仏壇の前に連れて行かれて、「仏様にごめんなさいしなさい。戴きますと言いなさい」と叱られましたし、それが仏様に対する礼儀なのだ、と子供心にも理解出来ました。
今思えば、「これはこうするのがルール」、といちいち教えてもらわなくても、生活の中で常識、しきたり、モラルというものを少しずつ教わり、身につけていたのですね。

大人になれば、叱ってくれる人、教えてくれる人は誰もいません。
モラル外、常識外なことをしたとしても、陰で失笑を買うだけで、本人はいつまで経っても学べないままです。
"教えてくれる目上の大人"不在となってしまった昨今、自分が常識だと思っていることも、時には「非常識なのかもしれない」と疑い、「これは常識的だろうか」と慎重に考えながら行動することが必要なのではないでしょうか。

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