死んでもいいから闘争する。
織田信長が好んで舞ったという敦盛の一節である「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」は、元々は非常に厭世観から作られた言葉ではあるが、信長自身の思いとしては、どうせ人間はたかだか50年(いまは80年か・・)の命であり、死ぬときは死ぬんだから、それを恐れずにやるべきことを、やるべきときにやる、という決意だった。
ベンチャー起業を志すのは、こうした思いに近いものがある、と思う。
特に米国と違って、学生ベンチャーならいざ知らず、社会人になってからの起業、もっといえばIPO狙いの上昇志向の高い&成長性の高い企業を作るという行為は、非常に大きなリスクを伴うものだ。
#参照
僕が思うに、人間には3つの死がある。
一つはもちろん、生物としての死だ。これを脳死でもって判定するか心臓の停止をもって判定するかは問題ではなく、自力で動けない、誰ともコミュニケーションもとれない状態になったら、それは生物としての死といっていいだろう。(少なくとも僕にとってはそうだ)
これはどうにも避けがたく、いつかはくる。DNA上は、100%健康で何のストレスもなければ120歳くらいまでは生きられるように、人間はプログラムされているが、遺伝による欠陥の相続や後天的なストレスによる機能の欠損、あるいは事故等によって、現代の人間は全うできればだいたい80歳くらいまでの寿命だ。
信長がいうように、これは避けがたいのだから、くよくよ考えてもしょうがない。
二つの目の死は、機能としての死だ。性別によって迎える症状は違うが、さまざまな機能不全が老化によって訪れ、やりたいことができなくなる。生物としての死を迎えるまでは、最小限の生活はできるかもしれないが、例えばクルマがどんなに好きでも反射神経や視神経の衰えで、運転はできなくなるとか、まあ、はっきりとは書かないが、さまざまな愉楽を放棄しなくてはならなくなる、ということだ。
そして、本題なのだが、三つ目の死とは社会的な死だ。僕はソーシャルデスと呼んでいる。
つまり、社会生活上、必要とされていないとか、あるいは社会的な成功を夢見ていた人間が挫折して、もはやそうした夢を抱くことさえ許されなくなってしまったときの心の死である。一般的には、企業に勤めるサラリーマンのような人達であれば、定年を迎えて退職したときに、この社会的な死を味わうかもしれないが、あまりにも緩慢に、時間をかけて訪れるので、大抵の人はそれを死とは思わず、それほど恐れることはない、と思う。
しかし、起業家であるとか、プロスポーツ選手であるとか、とにかくある種アウトスタンディングな社会的挑戦をしている人なら、この社会的な死が、訪れたときのことを考えると恐怖と不安を覚えざるを得ないはずだ。なぜなら、それは唐突に訪れるからだ。
生物としての死、あるいは機能的な死はいつか必ず僕たちを訪れ、否応もない。
だからそれを恐れてもしょうがない。
しかし、ソーシャルデスは、それが訪れてから、他の二つの死が訪れるまでに、下手をすると数十年、失意の中に(まるでゾンビのように)生きていかなくてはならないかもしれないという、本当の恐怖があるのだ。
だから、思う。
僕たちには時間がないのだ、と。がむしゃらに戦い、目標に向かって今を精一杯やるしかない。
やるべきことは、やるべきときにやっておかなければ後悔するのは目に見えているからだ。
最近では就職活動を諦めてしまう学生も多いと聞くが、甘えるのはやめて、本当に夢中になってやれることを探して、そこにフォーカスして、死ぬほど戦うべきだ。対話も融和もいいが、まずは独りになっても戦う。死んでもいいから闘争する。そういう心構えをもつべきだ。
死んでもいいから闘争する。闘争しよう。
それができるのは、いましかないからだ。