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モバイルシフトとソーシャル化によって変化するネットの世界を、読者と一緒に探検するBlogです。

オープンソースは、米国版「情けは人のためならず」。

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先日、コミュニケーションの難しさの一例として、「日本語が話せるかといって実は100%理解しているとは限らない」、「Face to Faceでならまだしも、電話はもちろんメールやチャットなどでは伝えたい内容の半分くらいしか実は伝わっていないのではないか」という話を周囲にしていた。その例として、スタッフの若い女性に、「情けは人のためならずって知ってる?」と聞いたところ、思った通り「他人に情けをかけてはその人の為にならない」と答えたので「やっぱりな」と思う反面、軽い失望(>_<)。

読者でわからない人は少ないと思うが、「情けは人のためならず」というのは、人に何かをしてあげれば、その行為が巡り巡って、自分にも誰かが何か無償の好意を向けてくれるものだ、ということで、つまりは情けをかけることは相手のためというよりも自分のためになる、そう思って人には優しくしましょう、という意味である。

日本人だから、日本語をしゃべっているからといって、理解できる語彙には人にはやはり差があって、なるべく平易な語彙を使い、相手の表情や反応を注意深く見ながら言葉を選ばないと、実は全くコミュニケートできていない、ということにもなりかねないことは、肝に銘じていなくてはならないのではないか。特にBlogに自分の意見を書いても、それが正しく伝わっているかどうかは本当のところわからないし、自分の言葉の使い方が間違っていて読者をミスリードしたとしても、それはなかなか自分ではわからないものだ。重々気をつけていかなくてはならないと改めて思う。

さて、本題。

情けは人のためならず、というのは、オープンソースの精神に通じるなあ、とちょっと思った次第。
自分で苦労して作った何かを、誰かに無償で公開するというのは、いったいどんな得があるの?と考える人も多いかと思うのだが、自分が何かソフトウェアを作って、そのソースを公開した場合、誰かより優れた人たちがそれに改良を加えて、ブラッシュアップしていってくれる。結果として、自分が作ったソフトが世界中の目に触れて、すごくいいものになるかもしれない。そして、その成果を自分でも試せるようになるとしたら、これはソフトの公開は人のためならず、ということになるではないか。クリエイティブコモンズの気分も、これに近いかな。

人間の考えることは基本的に同じで、デジタルかアナログかの違いはあれど、狭い視点で見ずに、世の中を広くとらえてみると、たいていのことは前からある考え方であることがわかるし、自分がどうしたらよいのか、わかってくるような気がするな。


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