ネット上での実名主義も本人の演出には勝てない
実名が原則と言う形のfacebook。突然のBreakには当然誰かの動きが裏にあるよねとか諸説あるわけですが、それはともかく、世の中に広く口を開けたサービス上での実名主義というものを広げる一つの役割を果たしつつあるような気はします。その真逆に従来からある各種の掲示板系サービスやTwitterの世界。もちろん明確に誰かがわかる名前や、たとえばTwitter上でも明示的に実名を使っているケースがあるわけです。
因みにTwitter上の私のユーザーネーム。それ自体は実名とは殆どかけ離れていますが、今現在は表示させると実名が出てくる状態にはなっています。以前はちょっと違ったのですが、諸々考えてそんな風に。
また、たとえば、このオルタナティブブログは最初から実名。
それが他のサービスだと、やはり完全に実名で使っているモノもあれば微妙に私とわかる程度のモノもありますし、どこからどう見ても判らないモノもあったりします。
なぜ?
人格、とまでは言わないけれど、幾つかの方向性を持ってその場を使いたいという意識
実名だけでやっている世界でも、そのサービスや場の性質上、あるいは性格上の違いから、自分自身でもある程度の方向性を持って接しているのは事実です。因みにそれがキチンと自分の中で定義できないと混乱するわけで、それがたとえば私自身がfacebookにどうやって接したらよいのか判らん!論になるんですが、まぁそれは私個人の話。
ただ、同じような事を多かれ少なかれ誰でも考えるんじゃないのかな?って思うことはあるんですよね。
それがたとえ実名で使っているサービスや場であっても。
完全プライベート、どちらかと言うとプライベート、どちらかというとビジネス、そして完全ビジネス
例えばの切り分けですが、こんな感じにすることは出来るんじゃないかと思っています。その中でどんな風に自分を見せてゆくのか。たとえば直接誰かと話をしていても、場の状況や立場によって話し方から立ち居振る舞いまで変わるのは普通だと思うんですね。
で、普通にネット上でも行われているとすれば (少なくとも私の場合は、やっぱり多かれ少なかれありますが) その実名主義理論は何を求めるものなんだろうか?ってのをちょっと考え込んだり。
所謂個人認証レベルで言うと、多分ある個人を特定するヒントにはなる。でも、その人のある特定の場での動きはその人の全ての動きを反映しているわけではないという仮説が成立するような気がするんですね。もちろん、実名主義理論の背景には、それを言う人それぞれの背景があるし、単一の方向性や結果を求めるものでは無いわけですから、私ごときがそれを心配する必要はないんですけど。
場に合わせた個人の演出、そして芸風
程度問題ではありますし、それこそ役者さんじゃないですけど、いろんな場でいろんな自分を演出していると、一体自分ってどうなの?みたいな感覚に襲われたりします。私は何となくそんな風に動いていた時期を通り過ぎて、それにくたびれてしまったので、公的な立場 (そんなの最近ありませんが(笑)) でなければ、少なくともネット上という場では過度に自分を演出する事は基本的に止めてますけど、それは私の話。
あ、もちろん、自然に切り替わる「それぞれの場でのトーン&マナー」って部分はありますけどね。基本的な芸風自体は変わらないとしても。
ネット上で名乗る「実名」の意味ってどうよ?的な話を時々目にしたり耳にしたりするのですが、それ以前に場で切り替わるモノってのもあるし、どの場でも同じ立場を堅持するって少なくとも私には出来ない芸当なので、それに立脚した議論って何なんだろうな~って思います。