二元論を使った詭弁がまかり通る危険>子供の安全と、漫画家の「表現の自由」
東京都の青少年育成条例改正案が話題です。
結局、議決は見送られ継続審議となりましたが、その賛否を巡るなかで気になる主張とそれに賛同する人が意外に多くてびっくりすることがありました。
元の主張は、デジカメ評価レポートで私も参考にさせていただいている、ジェット☆ダイスケ氏による以下のエントリーです。
子供の安全と健全育成の前では、漫画家の「表現の自由」など取るに足らない - webdog via kwout
そういう主張があること自体は問題とは思いません。これこそ思想の自由です。
しかし、
「まったくの正論。子どもの未来よりも大切なものなんてない。」
といった反応が数多くあることを見ると、非常にこれは由々しき問題だと感じました。
というのも、この”子供の安全と健全育成の前では、漫画家の「表現の自由」など取るに足らない"という主張は、二元論による詭弁という非常にありふれた一見正しく見えるけどかなり変なことももっともらしく主張できる典型的な手法だからです。
このパタンをいくつか言い換えてみましょう。
「人の命の前では、自動車の便利さはなど取るに足らない」
「地球環境を守るためには、クロマグロが食べられなくなることぐらい取るに足らない」
二つを比べてどっちが大事か明白だから、結論は大事なほうでしょ?という一見正しい主張です。しかし、正しいとは限らないのはなぜでしょう?
それは、二つの単純化された主張が、実は二者択一でもなんでもなく、さまざまな方針や政策を取り混ぜて行うべき複雑な事象だからです。
このような自殺することの是非とかならば、死んでしまうか生き続けるかという二つなのでまだ意味を持ちます。
「自殺は止めたほうがいい、死んでしまったら後悔も何もできないから」
しかし、「命と自動車の利便性」「地球環境とクロマグロ保護」とかは、実は二律背反な単純なものではありません。
それと同じように、漫画家の表現の自由を制限したら、子どもの安全と健全育成ができるか ということも単純な因果関係は無いし、二律背反なものではありません。
これは、表現を逆にしてみるとより分かりやすくなります。
「漫画家の表現の自由を制限したら、子供の安全と健全育成が可能になるはずだ」
「自動車を諦めたら、人の命が救える」
「クロマグロを食べなくなれば地球環境が守れる」
子供の安全と健全育成には複雑な要因が絡みます。子供を対象とした性犯罪が問題なら、まずは厳罰化や再犯防止策が直接的に必要なことでしょう。
自動車は確かに事故で多くの命を奪っていますが、トラックによる流通も考えると現代社会のインフラとして自動車が無い社会というのは考えにくくなっています。自動車の社会的費用を正しく評価してどうすべきか考えることには賛成ですが、単純なものでは無いと思います。
そして、最後の命題は、そもそも「地球環境」なるものがあいまいです。生物の多様性を人間の活動で急激に減らしてしまうことはよくないとは思いますが、数多くあるできることの中で特定の要因だけ目立たせて、あたかも「魔法の杖」「銀の銃弾」みたいに取り上げることは主張している団体・後援する組織や企業のおもうつぼです。クジラやマグロに注目を集めているけど、海底油田採掘に伴う環境破壊はどうなのか?地球温暖化によるシロクマなどの絶滅危惧種はどうなのか?結局のところ、情報戦でこういう派手なことをやって誰が得するかを考えればその背景が少しは見えてきます。
もちろん、道義的に許しがたい表現とかはあるし、その個別のある表現物を「有害図書」として批判するとかいう運動があるのも分からなくはありません。ここで問題にしているのは、この条例の是非以前の、単純化された二元論の枠組みに何の疑問も抱かず乗ってしまう人が多いことです。
Twitterはその同調と伝播をやりやすい媒体なため余計に私の目に入りやすくなっているのかもしれません。RTで引用して広める前、リツイートする前にもう少し自分で考え直される方がいいかもしれません。
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