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坂本龍一氏の「たかが電気」は、ケーキがあればパンが無くても生きていきえるという話だったのでは?

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坂本龍一氏の死を悼み安らかな眠りを希望します。そういう亡くなられたばかりの坂本龍一氏について「たかが電気」発言は切り取りではないかという篠原修司氏のフォロー記事が発信されました。

FireShot Capture 038 - 坂本龍一さんの「たかが電気」発言は切り取りによるミスリード。死去で再び批判集まる(篠原修司) - 個人 - Yahoo!ニュース_ - news.yahoo.co.jp.png
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20230405-00344371

篠原氏は、「たかが電気」というのは切り取りであって、坂本龍一氏は電気をおろそかにしていない、自家発電を皆がすれば、電力会社が原子力発電などを使った発電に依存しなくて済む。だから、電気に依存したエレクトロニカルミュージックをやっていることや自分の作品をNFTで売ることも矛盾ではないと主張しています。

しかし、私からすると、坂本龍一氏の発言は、「パンがなければケーキを食べればいいのに」という、マリー・アントワネット発言に匹敵する社会問題を自分は解決できるからみんなもやればいいのに というブルジョアの素朴な発言というのが本質に思えました。坂本龍一氏は自ら風力自家発電をした電気を使った生活をかつて喧伝していました。

ただ問題は風で一時期使えても風がない時に頼れる電力網があればこそという社会問題に対する対処という発想が欠けていたことだと思います。

坂本龍一氏のオピニオンは一つの考え方であり、そういうことも可能かもしれない という意味では大いに意義があると思います。自家発電でどうにかなる人が増えたら電力問題は解決できるのでは?という発想はフラワームーブメントとかに通じる思想でもあります。坂本龍一氏個人を糾弾するのは主眼でhありません。そいういう思想や行動が1960年代から60年ほど経った今の文明社会が直面する電力や地球温暖化とかエネルギー枯渇問題に有効な答えになりうるのか、現実問題として向き合いよりよい答えにむけて取り組むべき時代にある、そう考えます。

冷戦時代において Peace とか 国境がない世界を夢見ることは大いに意義がありました。それから60年ほど経って、太陽光発電や風力発電を使いながらも、電力網としては孤立した日本列島に暮らす我々が、毎月の電気代高騰に直面するロシアによるウクライナ侵攻でさらに混乱する時代に何ができるのか?たかが電気というけど、自家発電でどうにかなる社会ではなく電力網が支えるクラウドコンピューティングとかインターネット・モバイルネットワーク網に支えられた日々の生活がどうやったら今後の21世紀末に向けて支えられるのか?そんな問い掛けの答えは自家発電と違うところにあるだろう、そう考えます。

エジソンとテスラの電力戦争を経て、交流発電による電力網が生まれて庶民が電力を使える時代が到来しました。個々人が自己責任で自家発電することに依存した世界は、エネルギーの民主化というよりは、ブルジョアだけがエネルギーを自在に使える時代に思えます。そして、エネルギー資源枯渇家での温暖化問題という21世紀の課題を乗り越えるのに、今できることは原子力発電などのできることをミックスして取り組むことだろうと思います。代々木公園での集会での演説で自家発電を大衆に説いた坂本龍一氏が悪いとは言いませんが、「たかが電気」というワンフレーズ化は、電力網に頼らずとも必要ならば自家発電して自活せよという、一つの意見を象徴する言葉としてそれほど外れていないと考えます。

たかが電力など、自力救済せよという言葉は一つの意見として受け止めますが、20世紀に築かれた文明社会は電力網、パワーグリッドに依存する社会です。電力会社の電気が絶たれるのは水道を止められるのと同等以上に、文明社会に生かされている、長寿命化した我々の命が脅かされることでもあります。エネルギーの入手が困難になることで起きた戦争も多々あり、大衆が自家発電をできるぐらいの広大な風力や太陽光を自活して得ることは困難です。今こそ電力網が時々刻々と提供する電気のありがたみを理解し、人類が享受している文化的生活が電気に依存していることを坂本龍一氏が説いた「たがかが電気」という言葉で問い直すべき、そう考えます。

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