ウェアラブル時計に想うこと
転職によりApple製品へのこだわりは一気に減少し、AppleWatch への興味が一気になくなった。その点で客観的に見るようになったこともあり、それについて簡単に述べてみようと思う。
AppleWatchを今購入するつもりはほとんどない。つまり買わないだろうと思う。
普段、自分の左手には基本的にOMEGAがついている。自宅にいるときはつけてない。スマフォを必ずといっていいほど持ち歩く現代、実は必要ないといえば必要ないのだが、それでも基本的につけて外出する。
腕時計はファッションのひとつだ。人によっては何十個も高級時計を持っていて取り替えながら使う人もいるだろう。一つだけ高級時計を持ってそれを毎日使う人もいるだろう。わたしはOMEGAの時計盤の色が青のコンステレーションというクォーツ時計と、アポロ計画で使われたことで有名なスピードマスターを一つずつもっており、日によって使い分けている。通常はスピードマスターが多いが、青の軽めの服装のときはコンステレーションを好む。
どれくらいの人がそうなのかわからないが、腕時計にはファッション性があると思っている。つまり、「こだわり」や「着替え」があるのだ。
腕時計、という形式をとるかぎり、これに従う必要がある。多くの人間の左手首は、すでに腕時計にリザーブされた場所だ。そこにウェアラブル機器が介入してきた、と考えることができる。
マラソンの記録をとるための機器としてのウェアラブルは、すこし事情が違う。マラソンの間だけつけていればいいからだ。普通の格好からランニングウェアに着替えるときに、ウェアラブルを装着して走る。自然なことだ。
しかし、健康管理のための機器となると話は別だ。わたしも転職前にFitbit FLEXというウェアラブルを右手につけていた。毎日、行動時の活動量(主に歩数、距離、そして睡眠状態)を24時間記録することに意味がある。できるかぎりはずさないことが必要だ。そのように考えると、すでにリザーブされている左手首を必要とする時計型ウェアラブルには障壁が一つ多いことがわかる。
今、AppleWatchを購入するとなると「え、じゃぁもうOMEGA使えないの?」となってしまう。それはなんだか悲しい。けっこう高い腕時計だったし、気にいってる。「俺も買ったぜ」と自慢するくらいには使えるが、フィットネスデータの収集や情報機器としての意味合いは薄い。左手首にはOMEGAをつけていたい。
Appleさん、残念だけどわたしの左腕は、すでにOMEGAが住んでいるのです。ごめんね。