オルタナティブ・ブログ > 大人の成長研究所 >

ライフワークとしての学びを考えます。

チェスの駒のように動かされ、落とされ傷つくのは自分だけだと思っていた

»

私は、小学校での成績が相対評価でした。
 
学校の成績が中くらいだったのに、頑張って世間一般的に最難関といわれる有名私立に見事合格する人もいました。これは一概に学校の評価の仕方が悪いわけではなく、勉強のほかにコミュニケーション能力なども評価対象とする学校と、テストの点数と面接で評価する受験の違いがあります。学校の方は当然先生の主観が入ります。だから同じ成績であれば、声が大きく目立って活発な子の方が評価が高かったのを覚えています。また、受験の方は数字で決めるためすっきりはしていますが見逃す部分もあります。やはり人間が人間を評価することの難しさを感じます。
 
これは音楽のコンクールでも同じで、一等賞は何人も出すことはできませんから、究極の相対評価となります。そして、一等賞をとったからと言って、必ずしも将来持続するかというとそうでもない場合も多くあります。特に今時期は音楽コンクールがまっさかりで、全員が入賞できるわけではなく、審査員の顔ぶれによって合格、不合格と振り回され自分も何度も落とされた経験があるので、心が痛くなる時期でもあります。
 
先日、ある会社のマネージャーを任されている知人と話していたときのことです。
 
「マネージャーで何が大変かというとメンバーの人事評価です。グループの中で成績が下の方には、必ず何かしらレベルアップするためのプログラムをお願いするか、異動または新しい仕事を見つけてもらわなくてはならないという決まりがある。それが相対評価だから本当に厳しい。」
 
現在数字が出ていないからといって、その方の能力が無いわけではなく、きっかけさえつかめば将来のびる可能性だってあります。
本来ものすごく優秀であっても、プライベートな事情で成績が落ち込んでいる方もいます。
力はあってもアピールが下手で目立たない場合もあります。
 
不真面目で良くないわけではない。一度は共に成長をしていこうと願った仲間、本当に力のある人を落としていかなくてはならないのはとても辛く苦しいこと。
 
子供の頃に感じた、「順番をつけて人が人を評価する」という息苦しさというのは、大人になっても続いている。そしてその不安に拍車をかける社会の閉塞感。

私は競争が悪いといっているのではありません。本来高い評価をしたくても出来ないことや、本当は外で通用する実力を持っていても、狭い領域の審査基準で除外してしまうのはもったいないことだと感じているのです。
 
しかし、矛盾するようだけれども、完全な公平などない。
 
「落とされる対象になる方は皆さんとても真面目で可能性がある。そして、会社に愛情を持っている。だから私は最後まで信じたいし、闘う。もし今の場所を外れたとしても、絶対成長してほしい。その方にとってのベストを見つけ出してみせる。出た後も応援したいと思っている。」
とそのマネージャーさんは言っていました。
 
「外に出たほうがその方のためになるかもしれない。今のところにいるより伸びるかもしれないから良いのでは」と考えるのは、自分が楽になるための割り切り。
 
最後までその方の可能性を祈るという腹決めができたとき、人生は切り開かれていくのではないでしょうか。私はそう信じています。
 
☆☆関連記事☆☆
 
2012/08/09 「わたしは仕事を解雇になって良かったと思った」

Comment(0)