「真実」には興味がない人々の話
20年以上前のある日のことです。
数人の少年がワイワイガヤガヤとくだらない話をしていました。
仮に少年A、B、C、Dとしておきましょう。
話の流れで、そこにいないE君の話題になりました。
A:知ってる? Eのやつ、○○やったんだってよ?
B:まじか~? だっせぇ~
C:信じらんねーやつ、でもEだもんな、やりそう~
D: (・・・沈黙)
話題が変わり、今度はまたそこにいないF君の話になりました。
A:そういえばFのやつは○○だったんだってよ
B:かっこわる~
C:Fってどんだけネクラなん? あっははは
D: (・・・沈黙)
ここでなぜD君が沈黙していたかというと、「あれ? それ違うよな・・・」と思っていたからです。D君には、話題になっているE君やF君についての噂話が間違っている、と考える根拠がありました。
そこで、「いやそれは違うよ」と言おうかとも思ったD君でしたが、言おうかどうしようか考えているうちに次の話題になり、結局沈黙してしまったわけです。
そして三度目。
A:そういえばGのやつは○○なんだぜ?
B:だっせえー
C:だっせえー
D:・・・いや、そりゃ違うよ。○○じゃないよ
A:なんだよ、違うってのかよ
D:違うよ。僕は見てたから
A:・・・ちっ。
D:さっきのEとFの話も違うよ。間違ってる
A:うっせえなあ、今その話してねえだろ!
そしてA,B,Cの3人の間にただようシラけた空気。
そこでD君は気がついたわけです。
彼らにとっては真実はどうでもいいのだ、ということに。
彼らはそこにいない者を馬鹿にして笑いたいだけなんだ、ということに。
それに水を差したことで、D君は彼らに疎んじられていることにも気がつきました。
彼らにとってはD君の発言は、せっかく楽しく笑い転げているのを邪魔する「空気の読めない」行動なわけです。
結果、D君はそんな彼らと距離を置くようになりました。
さらにその後数十年の間にD君は、彼らを動かしている感情は「そこにいない誰かを馬鹿にしたい」というものよりも、
「自分がいられる場が欲しい」
というのが実情に近いのではないか、と思うようになりました。
「俺たちは仲間だよな」ということを確認するための手段として、「外」の者を馬鹿にしては「そうだそうだ」と盛り上がる、そんな行動様式が見えてきました。
だから、「間違いを指摘する」のは嫌われるわけですね。
最近では彼らの間ではこんな話題が人気のようです。
「○○は健康にいいんだって!」
「○○チェーンの商品では××を使ってるんだって! 怖いね!」
「STAP細胞は本当はあるのに小保方さん嫉妬されて潰されたんだよ!」
「福島では本当は原発作業員が何百人も死んでるんだよ!」
「原発は本当はコスト高なんだよ!」
「安倍政権は戦争をしたいんだよ!」
いずれにしても、身内で盛り上がるための手段でしかないので、彼らはそれぞれの話題について本気で関心を持っているわけじゃありません。その場で自分の身内と話が続けばいいだけですから本気で調べることもなく、「怖いね」とか「腹立つね」といった、同調する会話しか続かないわけです。
そこに「STAP細胞は捏造だとハッキリ分かってるよ」とか「原発作業員がそんなに死んでたら隠蔽できるわけがないじゃないの」といった、ちょっと調べればすぐにわかる、ごく当たり前の指摘をすることも歓迎されません。真実には興味が無く、「自分を否定しないで聞いてくれる場が欲しい」というのが本音の人々ですから・・・・
この問題に対して果たして打つ手があるのかどうか、正直私も見いだしてはいないのです。