文学偏重の国語教育からの脱却を!
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こんにちは。本職・文書作成能力向上トレーナーの開米です。
前回記事( "「図解」をする主な理由は自分が「理解」するため" )の中で、
と書きました。そこで、昔のメモを見返していたら関連する話題が出てきました。もともとは2012年3月11日にtwitterに書いたものです。
以上。
少なくとも私が高校生だった30年前には、国語教育は完全に「文学偏重」型でした。現代国語の教科書のほとんどが小説、評論、エッセイで占められていて、説明文、報告文が存在しないわけです。
文学というのは、要はこういう世界です。
基本的には「自分が感動すれば、おもしろいと思えば、ワクテカすればそれで終わり」です。
一方、ビジネスの世界で「説明」が求められる場面というのはこういう世界です。
こういう理由でこういうことをするべきである、ということを相手が分かるように説明しなければならないのがビジネスの世界です。
そもそもまったく目的が違うので、それぞれに適した構成手法もまったく違います。
たとえば、プレゼンテーションでよく使われる構成手法に「メッセージ+ポイント3」というものがあります。
私の提案はAです (メッセージ)
その理由は3つあります(ポイント3つ)
第1に・・・・、第2に・・・・、第3に・・・・
以上の理由によりAを提案します(メッセージを繰り返す)
というフォーマットが「メッセージ+ポイント3」なんですが、この同じパターンで小説を・・・・書けるわけがないので、文学作品をいくら読んでもこの手法はわかりません。
国語の試験問題でよくある形式のひとつに、「この文章で作者が言いたいことを50字以内で書け」といったものがありますが、私に言わせれば、その種の試験問題が成立するような文章はビジネス文書としてはそもそも失格であり、悪いサンプルでしかありません。
「言いたいことは、誰が読んでも誤解しないように簡潔明瞭に最初に書いておく」のがビジネス文書の原則なので、その原則を守って書いたものなら「作者が言いたいことを50字以内で」という設問には最初の1行をコピって来れば済んでしまうんですよね。
しかしそれでは試験問題として成立しません。というわけで、わざわざわかりにくい書き方をした文書を例示して読み取らせて試験にしているわけです。
そもそも使う教材が偏りすぎてます。ビジネス社会でもっとも必要なのは文学でも評論でもなく、報告であり、説明であり、事実と論理を組み合わせて論述した文書です。なぜその種の教材を使わないのでしょうか。
というようなことを考えていたら、河合塾の進学情報誌「Guideline」2007年11月号での "今求められる「国語力」とは" という特集が目につきました。 その特集に収録されている、市川伸一 東京大学大学院教育学研究科教授のインタビューを紹介します。
「本来は高校までの国語の授業中に扱って欲しい」。まったくもってその通りですが、2007年から数年経った現在、高校の国語教育はどうなっているんでしょうねえ・・・。
・・・・続く。
前回記事( "「図解」をする主な理由は自分が「理解」するため" )の中で、
文章を正確に読む、というのは予想以上に難しい。
(率直に言ってこれは学校の国語教育の失敗です)
と書きました。そこで、昔のメモを見返していたら関連する話題が出てきました。もともとは2012年3月11日にtwitterに書いたものです。
「Aが変化するとBにその影響が波及する」 という関係がある場合、Aを独立変数、Bを従属変数と呼ぶ。 独立変数と従属変数が1:1の場合は文章でその関係を説明してもそれほど難しくならない。問題は、独立変数が複数になると読者が混乱しやすいということ。
もちろん、独立変数と従属変数の両方が複数になるともっと大変なわけだが・・・・
独立変数:従属変数=多対1 あるいは 多対多 という関係のものを文章で説明しているのを読まされるとき、読者は「どの独立変数の話をしているのか」について混乱を起こしやすい。 人間の脳は自分にとって未知な複数の変数を同時に意識することを苦手としている。
そこで、わかりやすい文書を書くためには、この混乱を避けるための仕掛けが必要になる。そのために多くの場合非常に有効なのが、独立変数への適切なラベリング。そして図解。
ちなみに、文学作品にはこういう「独立変数:従属変数」の関係を明快に説明するように配慮された文章は普通出てこない。まあ、当たり前ですが。 だから、文学作品をいくら読んでも、その辺のお手本にはならない。
ところが日本の国語教育はその「文学偏重」型になっている。これでは、現代のビジネス社会に必要なコミュニケーション能力が育つわけがない。
以上。
少なくとも私が高校生だった30年前には、国語教育は完全に「文学偏重」型でした。現代国語の教科書のほとんどが小説、評論、エッセイで占められていて、説明文、報告文が存在しないわけです。
文学というのは、要はこういう世界です。
基本的には「自分が感動すれば、おもしろいと思えば、ワクテカすればそれで終わり」です。
一方、ビジネスの世界で「説明」が求められる場面というのはこういう世界です。
こういう理由でこういうことをするべきである、ということを相手が分かるように説明しなければならないのがビジネスの世界です。
そもそもまったく目的が違うので、それぞれに適した構成手法もまったく違います。
たとえば、プレゼンテーションでよく使われる構成手法に「メッセージ+ポイント3」というものがあります。
私の提案はAです (メッセージ)
その理由は3つあります(ポイント3つ)
第1に・・・・、第2に・・・・、第3に・・・・
以上の理由によりAを提案します(メッセージを繰り返す)
というフォーマットが「メッセージ+ポイント3」なんですが、この同じパターンで小説を・・・・書けるわけがないので、文学作品をいくら読んでもこの手法はわかりません。
国語の試験問題でよくある形式のひとつに、「この文章で作者が言いたいことを50字以内で書け」といったものがありますが、私に言わせれば、その種の試験問題が成立するような文章はビジネス文書としてはそもそも失格であり、悪いサンプルでしかありません。
「言いたいことは、誰が読んでも誤解しないように簡潔明瞭に最初に書いておく」のがビジネス文書の原則なので、その原則を守って書いたものなら「作者が言いたいことを50字以内で」という設問には最初の1行をコピって来れば済んでしまうんですよね。
しかしそれでは試験問題として成立しません。というわけで、わざわざわかりにくい書き方をした文書を例示して読み取らせて試験にしているわけです。
そもそも使う教材が偏りすぎてます。ビジネス社会でもっとも必要なのは文学でも評論でもなく、報告であり、説明であり、事実と論理を組み合わせて論述した文書です。なぜその種の教材を使わないのでしょうか。
というようなことを考えていたら、河合塾の進学情報誌「Guideline」2007年11月号での "今求められる「国語力」とは" という特集が目につきました。 その特集に収録されている、市川伸一 東京大学大学院教育学研究科教授のインタビューを紹介します。
国語教育が文学偏重で説明文、論説文のトレーニングをしていない
(前略)
私は日本の子どもは以前から、いわゆるPISA型読解力は弱かったという認識を持った方がよいと考えています。なぜなら、日本の伝統的な国語教育に大きな問題があったからです。完全な文学偏重型の教育で、例えば作文も読書感想文や生活作文ばかり。自分が調べたこと、知っていることを皆に伝える「説明文」、自分の主張を述べる「論説文」については、ずっと軽視されてきた観があります。
(中略)
重要なのは、そうしたことを子どもたちに任せっぱなしにするのではなく、よい説明、分かりやすい説明とはどのようなものか、原理原則を教えた上で、書かせることです。
その点が、これまでの国語教育には欠落していた観があります。私は学会で発表する学生に、説明の仕方を事細かに指導しています。「人に説明する時には、まず定義を示し、次にその具体例を明示する」「似たものとの類似点、相違点をはっきり示す」「なぜそういう名称になっているのか、由来を説明すると分かりやすい」といった基本です。こうした指導は、本来は高校までの国語の授業中に扱ってほしいところです。
「本来は高校までの国語の授業中に扱って欲しい」。まったくもってその通りですが、2007年から数年経った現在、高校の国語教育はどうなっているんでしょうねえ・・・。
・・・・続く。
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