危機感を煽るのではなく業績評価基準で人を動かせ
SIやSESを手がける企業の経営者からクラウドを売れる営業を育てたいので、そのための研修をしてほしいと依頼されたことがある。彼が言うには、折に触れて「危機感」を伝えてはいるが、現場は相変わらず工数案件を獲ってこようとはしない。AWSを使った新たらしいサービス事業を始めてはみたものの、なかなか受注できない。この状況を何とかしたいので、研修をお願いしたいという。
このようなご相談は、この方ばかりではない。同様の悩みを抱え、研修を通じて、もっと危機感を煽り、クラウドについての知識を充実させ、営業としてのテクニックを磨けば、この状況を打開できると考えている方が少なくないようだ。
そんな企業の営業の達成目標を聞くと、そのほとんどが「売上と利益」だ。しかも担当する部門に配属されているエンジニアの人数と前年の実績をベースとした外注エンジニアの人数から算定した工数に基づく数字を割り振っているに過ぎない。つまり、営業目標の達成基準が、実現したい新しい事業戦略のKPIを考慮することなく作られている。
新しい事業戦略を実施すれば、短期的には売上や利益が減少する場合がある。つまり、この経営者の希望通りにクラウドを売れる営業を育て、かれらがそのスキルを活かして案件獲得に努力すればするほど、自分の業績評価を下げることになる。つまり人事査定が下がり、収入も減ってしまうことになる。そんな理不尽なことを現場の営業が素直に従うわけがない。
この状況を放置したまま、「クラウドを売るための営業スキル養成研修」をやっても、ただの教養講座に終わり、現場に戻って従来通りの工数案件の獲得に汗を流すだろう。それでは研修した意味がないと、経営者がさらに危機感を煽り、プレッシャーをかけ続ければ、あるべき論と現実のダブル・スタンダードに苦しみ、心を病んでしまうかも知れない。目鼻の効く優秀な人材であれば、研修でこれからの「あたりまえ」を知り、この会社はヤバいと思って転職してしまうかもしれない。それでも、この研修を実施するかと問うたところ、件の経営者は少し考えさせて欲しいとなり、その後のご相談は途切れている。
かつてのように、工数需要が潤沢にあり、売上や利益がこれに比例する時代であれば、このような単純明快な業績評価基準は現場のモチベーションとなり、なんら矛盾を感じることなく仕事に邁進できただろう。
しかし、もはや現実はそんな単純明快ではない。人手不足は需要に応えきれないので売上の足を引っ張りはじめている、働き方改革とやらで稼働率も上げにくい、ユーザー企業の内製化拡大で優秀な人材の流失が増えている、クラウドや自動化、オフショアの普及は単金上昇の重石としてのしかかっている。
だからサービス事業だ、ストックの拡大だ、攻めのITやDXだというのだが、現場の業績評価基準を事業戦略に一致させなければ、現場が動くはずはない。
危機感を煽る必要もなければ、あるべき論を説教する必要もない。あなたの営業目標はこの数字だから宜しくね!と言われたほうが、楽である。
現場は自分が何をすれば評価されるかが分かれば、そのために仕事をする。売上と利益を上げることで評価されるのであれば、そのために知恵を絞り、努力を傾けるだろう。新しいことをはじめたいのであれば、それにふさわしい業績評価基準を作ることが、現場を動かす最善の策となる。
例えば、マイクロソフトが重視している業績評価基準のひとつに"consumption"がある。クラウド・サービスの消費量、つまり、できるだけ沢山使ってもらうことを評価基準としている。例えば、office365であれば、ひとりのユーザー・ライセンスでいろいろな機能を利用できるわけだが、できるだけ沢山、いや全部使ってもらい、業務の利便性を高めてもらうことが業績評価となる。このやり方であれば、代理店と競合することはなく、むしろマイクロソフトの営業が、代理店と一緒になって、いろいろと使ってもらうために製品の価値や魅力を訴求すれば、結果として、マイクロソフトの営業のconsumptionは増え、代理店の売上げもあがり、お客様の満足度も高まるので、Win-Win-Winの関係が実現する。
あるべき論や精神訓話を語らずとも、みんなが自発的に1つの結果を達成するためにベストを尽くそうとする。実によくできた業績評価基準だ。
また、ある大手外資系のソフトウエア製品やサービスを提供する企業は、営業の評価基準が30ほどあるという。余計なことを言わなくても、自分が与えられた業績評価基準を達成しようと自発的に努力をするので、自動的に目標は達成されるという。
ある大手SI事業者の営業は、元々経常利益を業績評価基準としていた。自前のデータセンター・サービスやクラウド・サービスの受注を増やそうとすると、膨大な先行投資がコストとして計上されるので、案件を獲得しても経常利益はほとんど上がらない。そのため、最初の頃はなかなか思うように事業は伸びなかった。そこで、先行投資分のコストを本社に付けることにした。営業は売上がそのまま経常利益として計上されるので、受注の勢いが増したという。
また、多くの中堅企業をお客様に持つSI事業者では、売上と利益が営業の業績基準だった。しかし、物販や受託開発は、売上はあっても利益がなかなか確保できない状況に陥っていた。そこで、AWSやAzureなどのクラウド・サービスを使ったアプリケーションの開発や運用のサービスを展開しストック・ビジネスを拡大したいと考えた。そこで受注した営業には、受注時点で3年分の見込みの売上と利益を業績として計上するようにしたところ、現場のモチベーションは大きく変わったという。いまでは、この会社の利益を支える事業として定着している。このような業績評価したのは、クラウド・サービスは物販と違ってリース更改がなく、一度使い始めたらずっと使い続けてくれること、その結果として、売上や利益は長期継続的に積み上がってゆくことになることを考慮して、このような業績評価基準にしたというのだ。
旧態依然とした業績評価基準を見直すことなく、危機感を煽り、精神論を語り、現場に忖度と自助努力を求めるのはやめようではないか。
危機感を募らせた現場はこのままではまずいと思うようになるだろうが、一方で、そのための努力が何ら報われないとすれば、どうすればいいのだろう。いままでのやり方を変えなければ、もっとチャレンジしろと求められる。家族のことを考えれば、そんなことなどできるはずはない。すると、チャレンジしない、積極性がない、分かっちゃいないと評価を下げられる。そして、研修をうけて勉強してこいと言われてしまう。
このような状況に置かれたときの現場の選択肢は3つある。
- 経営者の声を聞いたふりにして、自らを思考停止にして、いまの職場にしがみつく。
- ダブル・スタンダードに苦しみモチベーションが下がり、やがては心を病む。
- 正しいことをしたら、正しく評価される会社に転職する。
戦略と業績評価基準を一致させれば、このような事態は回避できるはずだ。
2022年10月3日紙版発売
2022年9月30日電子版発売
斎藤昌義 著
A5判/384ページ
定価2,200円(本体2,000円+税10%)
ISBN 978-4-297-13054-1
目次
- 第1章 コロナ禍が加速した社会の変化とITトレンド
- 第2章 最新のITトレンドを理解するためのデジタルとITの基本
- 第3章 ビジネスに変革を迫るデジタル・トランスフォーメーション
- 第4章 DXを支えるITインフラストラクチャー
- 第5章 コンピューターの使い方の新しい常識となったクラウド・コンピューティング
- 第6章 デジタル前提の社会に適応するためのサイバー・セキュリティ
- 第7章 あらゆるものごとやできごとをデータでつなぐIoTと5G
- 第8章 複雑化する社会を理解し適応するためのAIとデータ・サイエンス
- 第9章 圧倒的なスピードが求められる開発と運用
- 第10章 いま注目しておきたいテクノロジー