「はやり言葉」を使えば、自分たちは「なうい」とアピールできる?
「DXによる業務量の変化を回答した13社の合計では3年以内に計2万9769人の削減が見込まれた。13社は20年度までにすでに8700人分の削減を進めている。実施済みを含めるとDXを活用した業務削減量は4万人分に迫る。全従業員、約38万人の1割に相当する計算だ。」日本経済新聞・2021年11月19日
今朝の日経にこんな記事が掲載されていた。人手不足が深刻化する中、業務の効率化を進めることは、必然ではあるが、それを「DXによる」とか「DXを活用した」という言葉で、修飾することに意味があるのだろうか。「DX」を「デジタル技術」に置き換えたとしても、違和感なく解釈できる。あえて、DXと書く必然性はないだろう。
昨今、「アジャイル開発」が、大ブームである。ある企業は、自社のプライベートイベントで、「アジャイル開発で、開発生産性〇〇倍にした」と豪語し、その取り組み事例を紹介していた。しかし、話しを聞くと、開発生産性を向上させた理由は、「アジャイル開発」を使ったからと言うより、ローコード開発ツールを使用したことに寄るところがほとんどだった。一方で、「アジャイル開発」的な方法論を使ってはいるけれど、「アジャイルソフトウェア開発宣言」や「アジャイル宣言の背後にある原則」に照らせば、逸脱も多く、独自の解釈でアレンジしているようにも見える。
例えば、「アジャイル宣言の背後にある原則」の「ビジネス側の人と開発者は、プロジェクトを通して、日々一緒に働かなければなりません。」は、持ち帰りの受託請負型であり、事前にしっかりと仕様を決めてから取りかかっている。「シンプルさ(ムダなく作れる量を最大限にすること)が本質です。」についても、プロダクト・オーナーの役割が曖昧であり、既存の業務プロセスをそのままに、それをシンプルにすることなく、プログラムを開発しているかに見受けられる。
つまり、「お客様との十分な対話を通じて、ビジョンや事業目的を共有し、それに連なるビジネスの成果に貢献すること」ではなく、「お客様の要求する仕様のシステムを作ること」を目指したシステム開発であって、この根本に於いて、アジャイル開発の本質を逸脱している。
誤解なきように申し上げておくが、このようなやり方がダメだと言いたいわけではない。お客様も十分に納得し、満足しているのであれば、このやり方も素晴らしい方法論であろう。しかし、それを「アジャイル開発」というのは、いかがなものかとの苦言である。
「はやり言葉」を使うことは、世間の認知を得るには、有効な手段ではあるが、本質を逸脱し、独自の解釈で、「はやり言葉」を使うことは、大いに世間を惑わすことになる。
影響力のある大手メディアやITのプロ集団であるITベンダーであるのなら、もっと矜持をただし、自分たちが使う言葉に、慎重になって欲しい。
DXにしても、アジャイル開発にしても、いまの時代にあっては、とても大切なキーワードである。だからこそ、言葉の正しい解釈、すなわち、言葉の背後にある思想や哲学、あるいは、先人たちが築いた原理や原則を学び、その裏付けを持って、使うべきだ。
「はやり言葉」に乗り遅れまいと焦るがあまり、あるいは、「はやり言葉」を使うことで自分たちは「なうい(死語?w)」とアピールしたいがあまり、使うというのは、恥ずかしい行為であると、自覚すべきだと思う。
確かに、言葉を追求し、自信を持って使うことは、容易なことでない。ならば、拙速に使うのではなく、自分たちの解釈で実践し、実践を原理原則に照らし合わせて検証し、納得を得た上で使うことが、プロとしての矜持であろうかと思う。
再三申し上げるが、前掲の業務効率化や開発生産性向上のための取り組み、その方法論を否定するものではない。それはそれで素晴らしい。ただ、曖昧な解釈のままに「はやり言葉」を当てはめるべきではないと言いたいだけだ。
正直に言えば、この文章を書きながら、自分は、大丈夫なのかと、追い詰められているようだ。だから、このあたりにしておこう。