■ 歯科医でもこれだけのことができると勇気をもらった古い入れ歯
初めて来院されたときのMさん(90代/女性)は、ご家族に手をひかれ、とてもゆっくりと入っていらっしゃいました。
待合室から治療室に移動する際も、段差につまづいて転ばないように注意をうながし、治療台に座るときもご家族の方が手を貸して、なかばよろけるように腰をおろしています。
私が「口を開けてください」と言っても表情は少しうつろな感じで反応がありません。付き添っていたご家族がMさんの耳もとで同じ言葉を大きな声で繰り返すと、ユルユルと口元が動いてほんのわずかですが開いてくれました。この調子だと問診に時間がかかりそうです。どんな症状で困っているのかお聞きするのに30分ほどかかりました。
実は、Mさんは当医院に来る前に、他の歯科医院でも相談をしていました。
新しく作られたきれいな入れ歯が二組。どちらも装着すると口を閉じることができません。二組とも痛くて調整してもらっても治らなかったそうです。いずれも貴金属とセラミックを多用した自費治療の高額な入れ歯ですが、硬度が高く、強度も強すぎて、歯科医が手作業で調整したくても無駄な努力になるだろうなと一目でわかります。
「一応、こんなのも持っているのですが...」
ご家族はカバンから、ハンカチに包まれた入れ歯を取り出しました。十年以上も使っていたものです。しかし、新しい入れ歯に慣れようとして使わないでいた古い入れ歯は全体が茶色く変色していて、入れ歯にも関わらず歯石が分厚く付着しています。
話を伺うとこの古い入れ歯は、新しい入れ歯のような痛みを感じたことはありませんが、よだれが出てしまう。でもこの入れ歯なら加工や調整が可能です。持参していただいてよかった。
どんな具合なのか診察しようとしたのですが、Mさんは腰が90度くらいに曲がっているほどの極度の猫背。私は床に膝をついて、照明を調整して、口の中を覗き込むようにして、なんとか古い入れ歯を入れた口の中の状態を見ることができました。
咬んでもらうと左側の歯グキと入れ歯との間にスキマがあります。かなり大きい。これでは確かによだれが止まらないでしょう。
今回は新しい入れ歯を作るのではなく、使い慣れたこの入れ歯を丁寧に磨いて、入れ歯と歯グキが接する面にティッシュコンディショナーという入れ歯を安定させる材料を貼ることにしました。
安定材として使用するなら、通常は粉と液を混ぜてトロトロのペースト状にして使いますが、今回は目に見えるほどの大きなスキマを埋めなければなりません。ペースト状だと口の中で流れてしまってスキマが埋まらない。
そこで、通常よりも粉を多めに入れてもう少し硬いグミ状にしたティッシュコンディショナーを入れ歯に盛りつけました。それを口の中に入れると安定材が入れ歯から流れずにスキマが埋まります。
「あっ、これならいいかも!」
なんだかMさんの口調がハッキリしたような気がします。この状態でしばらく様子を見ることにしました。
1週間後のことです。Mさんは、当院にご自分で電話を入れて、一人でタクシーに乗って来院されました。
「あれっ、ご家族は?」
「今日はひとりで......」
Mさんはしっかりとした足取りで介助の手を借りることもなく、すんなりと治療イスに座ってくださいました。よだれが止まらない症状はすっかりなくなり、痛みもなく、食欲も旺盛であることを話してくださいました。大声で話しかけなくても会話ができます。さらに姿勢も90度の猫背から45度くらいに伸びています。
「姿勢も伸びましたでしょ」
ご自身でも自覚されていました。これなら床に膝をつかなくても診察ができます。今回は安定材のハミ出た部分を削っただけで治療終了になりました。
「入れ歯がこんな調子いいのは本当に最高ですね」
笑顔でおっしゃってくださったMさんは、自分のスマホで送迎タクシーを呼んで帰られました。
誤解のないようにお断りしておきますが、入れ歯によって整形外科的な疾患を治療できるなどと言うつもりはありません。とはいえ姿勢、耳の聞こえ、会話、食事、生活の質などが明らかに改善しているMさんを見て「歯科でもこれだけのことができる」と勇気づけられました。
今回の入れ歯にティッシュコンディショナーを貼る治療は保険治療で1,000円でした(治療費は症状により個人差があります)。
西荻窪 いとう歯科医院ホームページhttps://www.ireba-ito.com
hpすみ