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【ゆとり世代という「評価」は最悪の表現だと思う】思考は一般化することで停止する

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皆様こんにちは。鈴与シンワート株式会社の正林です。

少し前になりますが、先日の竹内さんのブログ

● 自分のことを「社畜」と言うのはもうやめよう

これに激しく共感した私も言葉の持つ力に関して思うところを少し。

「社蓄」(※ふざけた言葉です)であるとか「ゆとり世代」、「リア充」こういったひとつの傾向、事象、属性などの言葉は、ある意味その包括表現で全体としての意味合い、雰囲気の概要を伝えるにあたって端的に主旨、意図するところを伝えるに有効な言葉だと思います。

私も時折この手の言葉を利用してしまうわけですが。
しかしながら、こういった言葉を使うことで事象は一般化されて対象の個に対しての考察を得てして奪うものになりかねない。

例えば、ビジネスのシーンにおいても、あらゆるところで耳にする「ゆとり世代」などはこの最悪の例だと感じるのです。

「ここ数年、ゆとり世代が社会に出てくることになる」
「ゆとり世代は、仕事に対する姿勢に問題がある」
「ゆとり世代は○○なスキルに欠ける」

対象の本人が利用する場合、その包括した意味合いの中で自分という個を比較して表現する手段として有効なものだと思う。
当ブロガーでも村田じゅんじゅんのブログは、示唆に満ちたすばらしいものだと思います。

しかし、こういう言葉を周りの人間が総じた評価や見解として使うのは最悪だと思います。そして先の表現は彼らの個を見ようとしてない、ということを宣言しているようなものだという理解しかできないのです。

「ゆとり世代は、仕事に対する姿勢に問題がある」

という言葉をひとつ取り上げてみても、上司がいればそれは「ゆとり世代」という言葉に、対象の問題を押し付けて「何が問題であるか」ということを考察することや自らの指導方法や人間関係の構築についての反省をすら放棄している、と感じます。
こういった発言をする方に私は言いたい。それではこの世代の人間は、

「未来永劫社会の中で活躍することは無いのか?」
「それほどゆとり世代で無い自分にアドバンテージがあるのか?」
「彼らにこの、便利な言葉のレッテルが無くても同じことを言うのか?」

総論としての表現であっても、目の前にいる個人を想定してこの言葉を使うのはすでに、個として向き合ったときに「諦め」や「言い訳」の宣言であり、「対等な人間関係の構築」のために「彼、彼女らと向き合うことを放棄している」としか感じられない。

いい加減にせよ。

自らに、真剣な努力や考察なくして言葉に逃げるのは「能力が無い」ことを触れ回っているのと同義なのだから。
言葉に逃げることは、もっと具体的に言えば「ゆとり世代だから」ということは、それ以上の深い考察や思考を停止してしまっていることに他ならない、諦めの宣言。
あなたのこのモチベーションは、感情として彼、彼女等に確実に伝わる訳で「期待の無い状況」は高い意識や努力を促す気力を奪うだろうと考えるのです。

言霊。一般化した言葉ではられたレッテルは、個人の意識の深いところに根付いてしまう。いずれ自らの言い訳として使いかねない。

目の前の個人に向き合って、不足するスキルや改善すべきことは、自らにその手法、やり方、原因をが無いか考察することがまず必要な礼儀であり姿勢だと考えるのです。

一般論に逃げるのは簡単であるけれど、そこに何の生産性もない。まずは自己批判せよ、そう強く思うのです。

<了>

-正林 俊介-



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