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消費者の権利はどこまで認められるのか?── "権利"と"ただの要求"の境界線

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Micorosoft公式通販の返品規定はどうなっているのか

先日、Microsoftの公式通販サイトでタブレットを購入しました。
商品が到着したので開封し、さっそく立ち上げてみましたが、
思っていたほどに反応速度が快適でなく、返品することにしました。
Microsoftの公式通販サイトでは、試用後であっても、
60日以内に新品同様であれば返品を受け付けてくれるからです。

これは、購入者からすると大変ありがたいサービスで、
お試し感覚で気軽に注文することが出来ます。
欧米では、このようなスタイルの通販が珍しくありませんが、
日本ではなかなかそう簡単にはいきません。
なぜなら、日本の法律では、
通販にクーリングオフの義務はなく、
返品に関しての規定は、通販事業者が自由に決められるからです。

つまりは、日本の通販事業者が返品を受け付けるとするならば、
それは「営業上のサービス」ということになります。

また、これは欧米でも本質的には同じ構造で、
法律で定められた消費者の保護と通販事業者の「営業上のサービス」が重なり合って、
上記Microsoftの公式通販サイトのような返品規定を行っているのです。

したがって、不良品の返品は「消費者の権利」ですが、
試用後も返品できる・理由に関わらず返品できるなどは、
通販事業者の販促作戦のサービスということになるのです。

つまり、消費者に「権利があるからできる」のではなく、
企業がそういう条件を用意しているにすぎないのです。


◇消費者の権利の違和感

さて、このところ、「消費者の権利」というニュアンスの言葉を聞くことが多くなりました。
しかし、私はこの言葉を聞くたびに、少々違和感を感じます。

本当にそれは「権利」なのか? 
それとも、ただの「要求」ではないのか? 
ということです。

この違いは意外なほど曖昧で、
しかも現代ではほとんどあまり意識されていないのではないでしょうか。

「消費者の権利」という言葉自体は、もちろん正当なものです。

・安全な商品を受け取ること
・正しい情報を知ること
・不当な契約から守られること

これらは社会として明確に認められています。
日本でも法律として整備されていますし、
供給側の企業もそれを前提にビジネスをしています。

つまり消費者の権利とは、
単なる感情ではなく、
制度によって裏付けられているといえるでしょう。

では、なぜ違和感が生まれるのでしょうか。

理由は簡単で、「権利」という言葉が過剰に使われているからです。

本来、権利とは、

「正当性に基づいて、他者に対して主張できるもの」

であるはずです。
繰り返しになりますが、ここで重要なのは「正当性」です。

・ルールに合っているか
・契約に基づいているか
・社会的に皆が納得できるか

こうした根拠があって初めて、
その主張は「権利」として成立するのです。

(注:ただし、この「正当性」はひとつの基準で決まるものではありません。
法律、契約、社会の慣習、さらには個人の価値観など、
複数の基準が重なり合いながら判断されるものです。
そのため、何が「正当」かは常に一義的ではなく、
状況によって揺れ動く性質を持っています。)

この視点で考えて、もう一度返品の話を考えてみます。

例えば、
・不良品だから返品した
・表示と違う内容だった
・破損の危険がある商品だった

こうしたケースは、明らかに正当性があるといえます。
したがって、これは「消費者の権利」なのです。

しかし一方で、
・思ったより気に入らなかった
・気分が変わった
・店員の態度が気に入らない

こうした理由での返品要求は、たんなる感情的な「不満」となります。
したがって、これらには「正当性」があるとは言えません。

にもかかわらず、
ここに「権利」という言葉が被せられると、
話の構造が歪み、
疑似的な正当性が生まれてしまうのです。

本来の流れはこうです。

正当性がある
 ↓
主張できる
 ↓
権利になる

ところが現実には、しばしばこのようになります。

不満がある
 ↓
要求する
 ↓
これは権利だと言う

このズレが、現代の多くのトラブルの原因になっているのではないでしょうか。

言葉だけが先に立ち、中身の検討が抜け落ちてしまい、
強い「権利」という言葉だけが独り歩きを始める。
一度その言葉が使われると、
議論そのものが止まってしまう力さえ秘めています。

したがって、ここで一度、立ち止まって考える必要があるでしょう。

それは本当に権利なのか?
それとも、ただの要求なのか?

この問いを抜きにして、
「権利」という言葉だけを使うのは危ういのです。


◇福沢諭吉の懸念

実はこの問題、今に始まったことではありません。

明治の思想家、福沢諭吉は、
西洋の "right" を「権利」と理解することに慎重だったのです。
なぜなら、"right" という言葉は、
正しさや道理、社会的な承認を含んでいるからです。

つまり単なる主張ではなく、
正当性を伴った主張こそが "right" であり、"権利"なのです。

しかし「権利」という言葉だけが独り歩きすると、
その正当性が抜け落ち、ただの要求に変わってしまうのです。

まさに福沢が見ていた問題は、
今の私たちが直面している問題となっているようです。


◇消費者の権利はどこまで認められるのか

では最後に、消費者の権利はどこまで認められるのかについてお話しておきましょう。

答えは単純ではありませんが、ひとつの基準ははっきりしています。

正当性がみとめられる範囲のものであり、
声の大きさや感情の強さでもないものです。

つまり、どれだけ納得できる理由があるのか、
どれだけ社会のルールに基づいているのかに権利の境界があります。

「権利を主張する」という言い方は、
正確には、「正当性を提示して主張する」ものなのです。

消費者である以上、私たちは誰もが権利を持っています。
しかし同時に、その権利は無限のものではありません。

「それは私の権利です」と言う前に、
それは本当に、正当性を伴っているのか?

と考えることが重要です。
この一歩が、社会の在り方を少しずつ正していくはずです。
そしてこれは、企業にとっても、消費者にとっても、
より健全な関係を築くための基盤になることでしょう。

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