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小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その10) 終章

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本エントリーは、小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発(車載ソフトウェア開発)のシリーズものです。

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その1) はじめに

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その2) 序章

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その3) A-SPICE (1)

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その4) A-SPICE (2)

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その5) ISO26262とASIL

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その6) SOTIF

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その7) SDV・OTA

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その8) AUTOSAR

小説で学ぶ自動車ソフトウェア開発 (その9) 自動運転

前回の「その9」では、最終Partとして自動運転の世界を見てきた。

Perceive、Plan、Act。センサーで世界を見て、周囲の動きを予測し、走るべき軌跡を決め、ハンドルとブレーキを制御する。さらにその先には、従来型のパイプラインを超えようとするE2E自動運転、AIモデルの安全性、SOTIFとの関係、そしてOTAによって進化し続ける車の未来があった。

ここまで、A-SPICE、機能安全、SOTIF、SDV・OTA、AUTOSAR、そして自動運転という6つの世界を、主人公の成田剛志とともに歩いてきた。

それぞれは独立した技術領域に見える。しかし、プロジェクト・カイトという一台の車を世に出そうとしたとき、それらは一つにつながる。プロセスがあり、安全の設計思想があり、未知のリスクに備える枠組みがあり、出荷後も進化し続ける仕組みがあり、多くの会社が作るソフトウェアを統合する共通言語があり、その先に自動運転という知能がある。

今回の「その10」は、この物語の終章である。

Web系エンジニアとしてアイソーにやってきた成田剛志が、車載ソフトウェア開発の重さを知り、仲間たちとともにプロジェクト・カイトの最初の認定申請の日を迎える。カイトはまだ完成したわけではない。けれど、空へ向かう準備は整いつつある。

これは、ひとつのプロジェクトの終わりであり、同時に、車載ソフトウェアエンジニアとしての始まりの物語でもある。

終章 カイトが空に上がる日

プロジェクト「カイト」の最初のマイルストーン----高速道路L3の機能認定申請----が提出された日は、五月の晴れた火曜日だった。

僕は書類の束を抱えて廊下を歩きながら、一年半前に初めてこのビルに入った日のことを思い出していた。あの時の僕は、「車のソフト開発」と「Webのソフト開発」に、ほとんど違いがないと思っていた。デプロイが遅くて、テストが多くて、ちょっと古い業界、くらいの印象だった。

なんて浅かったのか、と今なら思う。

申請書類を提出してから一時間後、給湯室で藤谷さんと二人になった。彼女はいつものようにコーヒーを入れながら、「どう、疲れた?」と聞いた。

「疲れましたけど、なんか、実感がないんですよね」と僕は言った。「やっと終わったって感じより、ようやくスタートラインに立った感じがして」

「それが正しい感覚よ」と藤谷さんは言った。「認定が下りれば、今度は実際に道路で動く車に乗せる段階になる。そこからが本番。認定書類を作ることじゃなくて、本物の道路で本物のドライバーが安心して乗れること----それが本当のゴールだから」

「藤谷さんは、QAって楽しいですか?」と僕は聞いた。

彼女は少し考えた。「楽しいかどうか、あんまり考えたことないかな。でも、必要だとは思ってる。誰かが"本当に大丈夫か"と問い続けなければ、怖いじゃない、命に関わる製品なんだから。その役割を担えることは、やりがいだと思ってる」

泉谷さんとは、申請の翌週に短い話をした。彼は定時ちょうどにコートを手にして立ち上がりながら、「成田、一個言っておく」と言った。

AUTOSARを学んだな。機能安全も、SOTIFも、OTAも学んだ。A-SPICEのプロセスも体に染み込んだはずだ。だが、学んだことを知識として持っているのと、設計判断の局面でそれを使えるのは別だ」

「どうすれば使えるようになりますか」

「判断する場面に自分を置くことだ。知識は、判断の中でしか本物にならない」

それだけ言って、泉谷さんは帰って行った。

中月さんは、認定申請書を見ながら「細かいところを言えば、まだ直したいところが山ほどある」とぼやいていた。でも彼は同時に、「ただ、一年半前のこのチームから、ここまで来たのは事実だ」とも言った。

「中月さんが一番厳しかったですよ、やっぱり」とニコルさんが横から言った。

「当たり前だ」と中月さんは言った。「私が甘くしたら、誰が厳しくする。安全認証という仕事は、"優しい目撃者"を求めていない。"嫌われても指摘し続ける人間"を必要としている」

ニコルさんとは、認定申請から一週間後、LiDARの点群データが映るモニターの前で話した。

「ニコルさんは、自動運転がいつ本当に普及すると思いますか」と僕は聞いた。

L4ロボタクシーが限定エリアで普及するのは、20272030年くらいには始まると思う。でも"誰でも、どこでも"という意味のL5は、私が生きているうちに来るかどうかわからない」とニコルさんは言った。「でも、それでいい」

「なぜですか」

「完璧が来るのを待っていたら、何もできない。今できる最高のL3を、責任を持って世に出す----それを繰り返すことが、いつか本当のL5に繋がる。技術は、完成してから始まるんじゃなくて、始めながら完成していく」

点群データの中で、白い点の車が走り、白い点の人が歩いていた。

和泉屋社長と最後に話したのは、認定申請の翌月、全社員向けの発表会の後だった。発表会では、プロジェクト「カイト」の進捗と今後のロードマップが共有された。

社長は壇上で、最初の「六角形のプレゼン」と同じように話した。ただ、今回は六角形の中に、一本の線が描かれていた。

「プロセスが土台にある。安全の設計思想がある。リスクの想定がある。進化し続ける仕組みがある。共通の言語がある。そして、その先端にインテリジェンスがある。この六つが揃って初めて、凧は自分で空を飛ぶ」

発表の後、廊下で社長に声をかけられた。

「成田君、最初に会った時を覚えているか」

「はい。"車のソフトはWebと何が違うか"と藤谷さんに聞いた日です」

「その質問、今ならどう答える?」

僕は少し考えた。

......失敗の代償が違う、と思います。Webなら失敗してもロールバックすればいい。でも車は、失敗が人の命に直結することがある。だから、プロセスを規律し、安全を設計し、リスクを想定し、変化に耐える仕組みを作り、共通言語で繋がり----すべてがその"代償の重さ"から来ていると思います」

社長は少し間を置いてから、「悪くない答えだ」と言った。「ただ、もう一つある」

「何ですか」

「車は、ユーザーが制御しているつもりで、実はソフトウェアに命を預けている。Webは、ユーザーが自分でクローズすればいい。でも車は、100km/hで走っている瞬間に、ドライバーはソフトウェアに命を預けた状態になる。その重さを毎日感じながら仕事をすることが、この業界で働くということだ」

認定申請の書類を提出した日の午後遅く、僕はフロアを見渡した。

林さんが、珍しく部下たちに頭を下げていた。「お疲れ様、ありがとう」----その言葉を、僕は初めて聞いた気がした。あの「それ、いつ終わるの」「顧客に説明できる?」という口癖の人が、頭を下げている。一年半で、林さんも何かが変わったのだと思った。

渡会さんはいつものように無言で、でも珍しく小さく頷いていた。チームの結果を確認するように、手元のHARA表に静かに目を落としていた。

池田さんは「やっと終わりましたね」と笑った。「3回研修受けた甲斐がありました」と続けて、自分でウケていた。

そのとき、スマホに一通のメールが届いた。財前さんからだった。短いメールだった。「認定、おめでとう。次のフェーズでも厳しく見ます」。あの目の鋭さがそのまま文字になったようなメッセージだったが、なぜかそれが嬉しかった。

広井さんはすでに次のセキュリティ課題のドキュメントを書き始めていた。「OTAの次は、AUTOSAR Adaptive上でのセキュリティアーキテクチャを整理しないと」と独り言のように言っていた。この人は、止まらない。

「成田さん」と呼ばれた。太田だった。「ようやく追いつけた気がします」と彼は言った。

僕は少し笑った。「僕もまだ追いかけてる途中ですよ」

「じゃあ、一緒に走りましょうか」と太田は言って、ニカっと笑った。最初にあの大会議室で隣に座った時と、同じ笑顔だった。

五月の夕方、僕は一人でビルの屋上に出た。

風があった。

「カイト」----凧。

最初にそのコードネームを聞いた時、なぜ凧なのかと思った。今はわかる気がした。

凧は、一人では飛ばない。風を読む人間がいて、糸を操る人間がいて、その糸の先に凧がある。糸が切れれば凧は落ちる。糸が強すぎれば凧は上がらない。糸の長さと張力を適切に保ち続ける----それが、車載ソフトウェアエンジニアリングのすべてだったのだ。

A-SPICEは、糸の品質を保証するプロセスだった。

機能安全は、糸が切れないように設計する思想だった。

SOTIFは、見えない風の危険を想定することだった。

OTA・SDVは、空中で糸を補強し続ける仕組みだった。

AUTOSARは、全員が同じ言語で糸を作るための共通規格だった。

そして自動運転は----凧が、風を自ら読んで、自ら飛ぼうとする試みだった。

まだ飛んでいない。でも、もうすぐ飛ぶかもしれない。

空を見上げると、夕日が赤く染まっていた。

僕はポケットからノートを取り出した。

一ページ目には、あの給湯室での会話が書いてあった。「車のソフトはWebと何が違う?」

最後のページには、今日新しく書いた一行があった。

「命を預かる技術は、絶えず問い続けることで成立する」

風が強くなった。

どこかで、凧が揚がる音がした。

-- 完 --

プロセス × 安全 × リスク × 進化 × 標準 × インテリジェンス

六つの世界が重なる場所で、凧は空を飛ぶ。

― あとがき

本書は、A-SPICE・機能安全(ISO 26262)・SOTIFISO/PAS 21448)・OTAAUTOSAR・自動運転の

51の知識単位を、物語の形で記述したものです。

登場する人物・プロジェクト・企業名はすべて架空です。

技術的事実は執筆時点(2026年)の情報に基づきます。

糸を持ち続けるすべてのエンジニアへ

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