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洒落(シャレ)のない社会に表現は生き残れるか?

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最近、ちょっとした冗談が通じにくくなってきたと感じています。
あくまでも洒落、あるいはユーモアを含んだ例え話で言った軽いひとことが、「失礼だ」「不謹慎だ」と受け止められ、SNSでは謝罪に追い込まれるようなケースも少なくないように見受けられます。

かつては人と人との距離を縮める潤滑油だった"洒落(シャレ)"が、いまや火種になってしまう。 そうした現象を見ていると、私たちは言葉の自由と想像力を、少しずつ手放しているのではないかという危機感を覚えます。

あらためて説明しますと、洒落とは言葉に宿る"遊び心"であり、単なる冗談ではありません。同時に"信頼のしるし"でもあります。
たとえば、江戸の粋な文化では、本音をあえてストレートに言わず、遠回しに伝えることが美徳とされました。 また、上方ではストレートに本音を言うものの、柔らかく笑いで包むおおらかさがありました。

つまり、洒落は「相手が分かってくれる」という前提があるからこそ成立する言葉なのです。 そこには、"通じ合うこと"が前提となり、そのうえで楽しむ心のゆとりが必要なのです。

いま、バラエティ番組で少し尖ったことを言えば「炎上」し、芸人は「不謹慎な発言」について釈明しなければならなくなります。
昔なら"芸のうち"として笑って受け止められていたやりとりが、「パワハラだ」「差別的だ」と糾弾されてしまう。
もちろん、時代に合わせた配慮は必要ですが、その配慮が表現の萎縮へと変わってしまっている気がします。

SNSの言論空間でも似た現象が見られます。
例えば、ユーモアのつもりで言ったひと言が、文脈を切り取られ炎上の引き金になる。
発信者と受信者のあいだに"文脈を読む力"と"悪意で受け取らない感性"が必要とされているにも関わらず、意識的あるいは無意識にスルーされて一方的な糾弾が常態化しているのです。

洒落には、曖昧さや余白があります。
それこそが、物語や詩、演劇、対話といった文化の根っこでもあります。
しかし今は、「わかりやすさ」が重視され、TV番組などでは、登場人物の気持ちや状況を過剰にナレーションやセリフで説明するようになっています。

これは、受け手に"解釈を任せる"ことへの信頼が薄れた結果とも言えるでしょう。
文化とは、読み解き、考え、対話することで深まるものです。
洒落のように、「わかる人にはわかる」表現が成立しない社会では、文化もまた薄っぺらいものになってしまうのではないでしょうか。

また、表現は理屈だけで語られるものではありません。
例えば、「展望が開けそうな予感がある」ことを語るとき、私たちはしばしば比喩や例え話を使います。
「夜明けは近い!」「春が来た!」「風が吹いてきた!」――これらはすべて、洒落や言葉の遊びの延長線上にあるものです。

しかし、こうした言葉の表現に対してすぐに、
「夜の仕事の人は夜明けに眠り始めるんじゃないか?」
「春は花粉症で嫌なイメージを持っている人がいるんじゃないか?」
「台風の突風で被害を受けた人がいるんじゃないか?」
と問い詰めるような空気があると、誰もが慎重になり、言葉を選ぶことばかりに意識が向いてしまう。

洒落が消え、言葉が重くなればなるほど、人は語らなくなる。
そして、人が語らなくなった社会では、本当の表現は消滅し、べた記事のようなものばかりが並んでしまうことでしょう。

洒落とは、ちょっとした言葉の娯楽であり、遊びの比喩でもあります。
それが通じ合える関係性を、私たちはもっと大事にしてもいいのではないでしょうか。
洒落を失うことは、私たち自身の豊かさを失うことなのですから。



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(イラスト:いちごいちえ)

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