強者の矜持(きょうじ)
この自然界には、幸か不幸か必ず強者と弱者が存在している。人間の世界においても、狩猟時代はそれほどでもなかったようだが、農耕が始まり豊かな土地を持つ者と持たざる者の違いが明らかになってからはより顕著にその傾向が表れたように思われる。
現在の法の下での平等が謳われている社会においても、確実に強者と弱者は存在しているのだ。
具体的には、
富める者←→貧しい者
政治的権力を持つ者←→政治的権力を持たない者
情報強者←→情報弱者
人気のある者←→人気のない者
財力のある企業体←→財力のない企業体
などである。一部の社会主義国を除き、我々はとりあえず資本主義経済の下自由競争を行っているのであるから、ある程度の差が付くことは致し方ないことであると考えられる。この競争が、社会の活気を生み、新たな技術革新を生み出すとするならば、我々にとって強者と弱者が存在する状況は必要悪と言えるかもしれない。そういった意味では、強者は社会的にひとつの役割を与えられていると考えられる。
しかしながら、強者には矜持(きょうじ)が必要である。矜持とはすなわち、自負、自尊を持ったプライドの事である。強者が社会的役割を持っているとするならば、その行動は他者の規範となるものでなければならない。例えて言うなら、常におごらず謙虚であり、弱者を思いやる姿勢を持っているということになるだろう。
振り返って、現在強者と思われる人々の言動を見ると、それは散々たる状況と言えるかもしれない。
自らの地位にしがみつく者、自らの豊かさを必要以上にアピールする者、強者でありながら汚い言葉で相手を罵倒する者など、あえて具体例は挙げないが読者も簡単に想像がつく人物がたくさんいるのではないだろうか。
もし、このブログの読者が何らかの分野で強者であるならば、あるいは今後強者になった暁には、「強者の矜持」という言葉を頭の片隅に必ず置いて貰いたい。強者になればなるほど、社会的責任を負うということを決して忘れてはならないのだ。