評論家という職業は本当に必要なのか?
世の中には、評論家・批評家なる人物が多数存在する。政治評論家、経済評論家、住宅評論家、映画評論家、美術評論家などなどすべての分野において評論家がいると考えていいだろう。
しかし、この評論家という職業は本当に必要なのだろうか??
評論家とは、最近では、○○アナリストなどと自称する場合もあるが、さまざまな事柄に対して自分が考えた見解を発表することを職業としている人々である。しかし、おもしろいことに、実際その分野で活躍してきた人は、「評論家」と名乗ることはない。
たとえば、政治家を引退した人物が現在の政治を評論することが少なくないが、彼らは政治評論家と呼ばれず、元衆議院、元財務大臣、元首相などと呼ばれている。また、芸術の世界においても、映画監督経験者がメディアに登場し、他人が監督した作品をああだこうだと評論しても、評論家とは呼ばれない。映画監督という呼称で十分なのである。あるいは、漫画家が政治を語っても政治評論家とは呼ばれない。漫画家で十分なのである。
つまり、評論家・批評家とは、特に何の実績や経験もないが、ある分野に関して詳しい知識を持っているべき人物だと言うことだ。したがって、評論家・批評家なる人物は、相当の知識レベルを維持しておかなければならない。歴史的なことはもちろんのこと、最新の情勢についても把握しておかなければ評論など出来るはずはないのだ。そして、評論、批評をする場合、特定の個人や団体を非難することも少なくない。それだけに高い見識が求めらるはずである。
また、別の言い方をすれば、その分野に対してなんら実績がないのであるから、高い知識を持ち合わせていなければ他人を説得することなど出来ないのだ。
さて、以上の考えに基づいて世間一般を見渡してみよう。
確かに一般人では知らない、あるいは思いもつかない知識と見識を持ち、メディアで活躍する評論家、批評家も少なからずいる。しかし、一般人と同じレベルの視線で論評を行い、単なる「感想屋」になっている評論家・批評家が多すぎるのではないだろうか?
これはなにも昨今、テレビに登場してるタレント化した評論家だけの話ではない。古くから評論している人々も同じ傾向がある。無論、評論家が個人的見解を語る以上、その人物の好き嫌いや嗜好が加味されるであろうが、対象に対する分析や解説が不十分で個人的な感想を述べるに止まる論評が少なくない。これは、おそらく対象に対する分析や解説をする知識を持ち合わせていないためであろうと推察される。
また、日頃仲良くしている対象に対しては、非常に好意的な論評を行う評論家も少なくない。このような「ご用聞き」評論家は、言うまでもなく存在意義がない。
したがって必要とされる評論家とは、特定の分野に関して、<一般人が知らない知識と見識を持ち、その分野の歴史的背景などを踏まえ、また最新の情勢を把握した上で論評を加える事の出来る>人物である。単なる感想屋はまったく不要なのである。
この考えに基づいて色々な評論を見れば、誰が本物で誰がニセ者か容易に判断がつくだろう。
評論家、批評家を名乗る人々よ、「もっと勉強しなさい!」
という言葉でこのブログを締めることにする。
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おそらく、これが誠ブログ最後の投稿になると思います。
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